五ノ月
「助けて………! 助けて、ちびうさ………!!」
悲痛なうさぎの声に、スモール・レディは目を覚ました。時間は六時を少しばかり回ったところだった。起きるにはまだ少しばかり早いが、もう一度寝る気にもなれなかった。
天蓋の付いた四柱式ベッドは、真っ白なシルクの布地で囲まれている。窓から差し込んでくる淡い陽射しが、シルクを抜けて目に飛び込んでくる。どうやら、夕べはカーテンを閉め忘れたようだ。
「うさぎ………」
ベッドに半身を起こしたまま、スモール・レディは呟いた。やけにリアルだったうさぎの声。それは、自分に助けを求めていた。
うさぎが自分に助けを求めたことなど、今まで一度もなかった。だから、不安になった。例え夢だったとしても、不吉なことが起こる前兆のような気がした。
「………夢………。うううん。幻聴………?」
どちらとも判断が付かなかった。ただ、夢だったら映像を伴うはずである。
スモール・レディは、自分のベッドの天蓋をぼんやりと眺める。
うさぎの声が耳に残っていた。悲痛なうさぎの声。自分に救いを求めるうさぎの声。
「二十世紀で何かが起こった?」
しかし、うさぎが自分に助けを求めるほどの戦いが起こっているのならば、ルナかアルテミスを通じて知らせがあるはずだ。いや、知らせを出せないほどの激しい戦闘が行われている可能性もある。
考えれば考えるほど、不安になる。
だが、そんな敵が現れているのならば三十世紀のセーラープルートが察知しているはずである。そんな報告は受けていない。
「………うさぎの身に、何か起こった?」
大きな戦いが発生したのではなく、うさぎ自身の身に何か重大な危機が迫っている可能性はないのか? スモール・レディは考えを変えてみた。それならば、二十世紀から何の知らせも来ないことの説明は付く。
「でも、まもちゃんやみんながいるのに、何故あたしなの( ?」)
疑問もある。身近に衛や四守護神がいる。外部三戦士やサターンだっているのだ。それなのに、何故三十世紀の自分に呼びかけてくるのか。
考えれば考えるほど、分からなくなる。
「確かめなくちゃ」
考えていても答えは出てこない。ならば行動あるのみ。二十世紀に行って、自分の目で確かめればいい。
スモール・レディはベッドから起き上がった。「自分の気のせい」であると言う可能性は全く考えなかった。いや、それを考えさせないほど、耳に届いたうさぎの声は悲痛で、そして現実味を帯びていたのだ。
「あたし、二十世紀に行きたい」
リビングで母親であるネオ・クイーン・セレニティの姿を見付けると、スモール・レディはすぐさまそう言った。
ネオ・クイーン・セレニティの足下にいたルナとダイアナは、突然のスモール・レディの言葉に驚いたような表情をみせたが、言われた当の本人―――ネオ・クイーン・セレニティの方は、さして驚いた様子は見せなかった。
「どうしたの? 突然二十世紀に行きたいだなんて………」
優しげな目でスモール・レディを見つめているだけで、一向に口を開こうとしないネオ・クイーン・セレニティに代わって、ルナが尋ねてきた。スモール・レディが二十世紀に行きたがることはよくあることだし、特別な理由がない限りは禁じられることはない。それに、両親の目を盗んで、時々勝手に遊びに行っている節もある。だが、こんな早朝に、しかもあのような真剣な眼差しで二十世紀行きの許可を求めるスモール・レディを、ルナは初めて見たような気がした。
「うさぎがあたしに、助けを求めているの」
「うさぎサマが!?」
ダイアナは軽い身のこなしで、スモール・レディの頭の上に飛び乗った。
「駄目ですよぉ。そんな見え透いた嘘を付いちゃ………」
ダイアナはスモール・レディの耳元で囁いた。だが、もちろんスモール・レディは首を横に振る。嘘を言っているつもりはなかった。
「行って確かめたいの! いいでしょ? ママ」
スモール・レディは真剣だった。真っ直ぐにネオ・クイーン・セレニティの目を見つめる。
ネオ・クイーン・セレニティは無言だった。優しげな瞳をスモール・レディに向けているだけである。しかし、拒絶をしている表情ではなかった。
「行ってきなさい」
答えたのはキング・エンディミオンだった。セーラーカルテットの四人を従えて、ゆっくりとリビングに入ってくる。キング・エンディミオンが四人を伴うことは珍しい。セーラーカルテットはスモール・レディの親衛隊なのだ。
「ジュンジュンとベスベスを連れてお行きなさい」
ネオ・クイーン・セレニティは言った。許可の意である。
スモール・レディの頭の上にいるダイアナは、ルナに目を向けた。ルナは無言のまま肯く。ダイアナの同行も認められたようだ。
「ありがとう、パパ! ママ!! 行くよ。ジュンジュン、ベスベス」
スモール・レディは跳ねるようにリビングを飛び出していった。
「何か起こっているって言うの?」
三人の後ろ姿が見えなくなると、ルナはネオ・クイーン・セレニティに顔を上げた。
「分からない。今の二十世紀は、もうわたしたちがいた二十世紀と次元が違ってしまったわ。スモール・レディが行こうとしている二十世紀で起こることは、わたしたちは経験していないことだもの………」
ネオ・クイーン・セレニティは言う。うさぎたちのいる二十世紀は、幾つかのイレギュラーの発生によって、ネオ・クイーン・セレニティたちの三十世紀とは全く別の次元の世界になってしまったのだ。うさぎたちの二十世紀はこのまま時代が進んでも、ネオ・クイーン・セレニティたちの三十世紀と同じになることはない。だから、うさぎたちがこれから遭遇するであろう出来事は、ネオ・クイーン・セレニティたちは体験していないことなのだ。
「パラパラも二十世紀に行きたかったなぁ………」
名残惜しそうに、パラパラはスモール・レディたちが消えていった通路を見つめている。
「準備だけはしておきなさい。すぐに行ってもらうかもしれない」
キング・エンディミオンはセレセレに向かって言った。
「キングは、スモール・レディのお言葉を信じていらっしゃいますのね」
「彼女は何かを感じたようだ」
キング・エンディミオンの表情は、緩むことはなかった。
「わたしが感じた胸騒ぎと、同じかもしれないわ」
やや不安そうな表情で、ネオ・クイーン・セレニティは言った。どうやら、彼女も何かを感じていたようだった。
「ジュンジュンとベスベスを調査に向かわせようとしたのは、そのためでしたのね」
セレセレが納得したように言う。キング・エンディミオンがセーラーカルテットを連れていたのは、そのためだったのだ。
今朝早くにセレセレの部屋にキング・エンディミオンは現れ、カルテットの集合を指示した。そして、ジュンジュンとベスベスを二十世紀に調査に向かわせることを指示されたのだ。調査の内容は、出発前にこのリビングで説明されることになっていた。スモール・レディが二十世紀に行きたいと言い出したのは、もちろん偶然でしかない。
「思い過ごしであればいいのだけれど………」
ネオ・クイーン・セレニティは呟くように言った。
悲しげなうさぎの声。助けを求めるうさぎの声。ネオ・クイーン・セレニティはそれを耳にしたわけではないのだが、言いしれぬ胸騒ぎを感じて目を覚ましたのだ。すぐさまキング・エンディミオンに相談し、そして密かにカルテットを調査のために向かわせることを決めたのだ。
「スモール・レディを送り出して参りました」
リビングにセーラープルートが現れた。ガーネット・ロッドに真っ直ぐに立て、片膝を付いて畏まる。
「せつなに連絡を取った方がよろしいでしょうか?」
セーラープルートは顔を上げた。彼女は二十世紀のせつなに、いつでも念を送ることができる。逆に言えば、せつなも三十世紀のセーラープルートとはいつでも連絡を取ることができるようになっていた。
「いや、いい。我々の思い過ごしかもしれない。悪戯に事を荒立ててはいけない」
答えたのはキング・エンディミオンだった。たしかに、まだ何が起こっているのか分からない状態で、二十世紀の面々に連絡をするのは得策ではない。彼女たちには普段の生活があるのだ。これを壊す権利は、彼らにはない。
「スモール・レディに旅行をさせただけで終わると良いのだが………」
そう願うキング・エンディミオンだったが、そうはならない予感がしているのも事実だった。
一の橋公園に、スモール・レディいやちびうさは到着した。二十世紀の空気は汚れていて、とても美味しいとは思えなかったが、この薄汚れた空気がちびうさは大好きだった。胸一杯に空気を吸い込むと、たちまち「スモール・レディ」から「ちびうさ」に戻れる。
「相変わらず、ゴミゴミしたところだなぁ」
ジュンジュンがしかめっ面を作る。二十世紀は久しぶりだった。
「たぬきあなの公園て、まだあるのかなぁ」
「まみあな公園だよ、ベスベスぅ」
ベスベスは、狸穴公園の名前を間違って覚えていたらしい。狸穴公園は、彼女たちがデッド・ムーンとして本拠地を構えていた因縁の地だった。サーカス団をカモフラージュに暗躍していたのだが、実際に自分たちも出演していたので、二十世紀の地では一番思い入れのある場所だった。
「あとで行ってみない? ジュンジュン」
「そうだな、ちょっと見に行こうか」
「ふたりとも、遊びに来たんじゃないんだよ」
任務を忘れて少々浮かれ気味のふたりを、ちびうさは窘める。今回は遊びに来たのではないのだ。
「分かってるって! 全てが片付いたらの話だよ」
「そうそう。だから、とっとと用件済ませようよ」
「ホントに分かってる?」
ちびうさはジト目でふたりを見る。このふたりは、羽目を外すと歯止めが利かない。しっかり者のセレセレがいた方がちびうさとしては安心できたのだが、大好きなパパが人選したらしいので文句は言えない。
「………ところでさ。あんたたち、もう少し服装に気を使ってよね」
呆れ顔でちびうさは言う。ジュンジュンとベスベスのふたりは、サーカス団当時の奇抜な服装をしていた。これでは目立ちすぎる。公園を通りすぎる人々が、物珍しげにふたりを見ている。
「動きやすいしさぁ。気に入ってるんだよね」
「大丈夫。目立たないように行動するから」
あっけらかんとふたりは言う。ちびうさは益々不安になった。
「ところで、スモール・レディはこれからどうする?」
訊いてきたのはジュンジュンだ。
「まずは家に行ってみる。うさぎがいるかどうかを、育子ママに確認する」
「いたら、任務完了じゃん」
「そうとも限らないわよ」
楽観的なジュンジュンの意見を、ちびうさは否定した。うさぎがいるからと言って、それで全てが終わりだとは考えられない。うさぎの謎の呼び掛けの意味を明確にしなければ、二十世紀に来た意味がない。
「ちびうさちゃん!?」
「あっ! ほたるちゃん!!」
公園の真ん中で立ち話をしている三人を、トンネルを抜けてきたほたるが発見する。驚きに目をパチクリとさせながら、こちらを見ていた。
「いつ来たの?」
「今さっきだよ」
ちびうさは答える。ジュンジュンとベスベスのふたりを怪訝そうに見ながら、ほたるは歩み寄ってきた。
「ねぇほたるちゃん。こっちで何か起こってない?」
「何かって?」
「例えば、うさぎが困るような大事件とか………」
「事件じゃないけど、試験が近くて困ってるみたいだけど………」
ほたるは顎に右手を当てて、思案を巡らす。大事件など、当然起こっていない。
「う、むむむ………」
ちびうさが考え込んでしまった。確かに、試験はうさぎにとっては大問題であり、その結果如何で進級が危ないともなれば大事件なのだが、そんなことで三十世紀の自分に救いを求めるとは思えない。
「やっぱさぁ、スモール・レディの思い過ごしなんじゃない?」
両手を頭の後ろに回し、ベスベスは言った。溜め息のおまけが付いた。
「うぅぅぅ〜〜〜」
ちびうさは唸るしかない。見るところ、二十世紀は平和そのものである。あの悲しげなうさぎの声は、やはり自分の聞き間違いなのだろうか。
「どうかしたの?」
三人の様子が変なので、ほたるとしてはこう質問する他はない。
「うん。ちょっとね………。なんか、妙な“予感”がして二十世紀( に来たんだけど………」)
ちびうさは語尾を濁した。何ひとつ確信が持てないし、言い切るだけの自信もないからだ。仕方がないから、曖昧な口調になる。
「す、スモール・レディ!! あ、ほたるサマ!!」
十番商店街方面のトンネルを抜けて、ダイアナが血相を変えて走ってきた。彼女は一足先に、司令室に行っていたのだ。ルナとアルテミスから、現在の二十世紀の状況を聞くためだった。
「どうしたの? そんなに慌てて………」
「パ、パパちゃまとママちゃまが行方不明です!!」
「ルナとアルテミスが!?」
ちびうさとほたるが同時に聞き返す。それは見事なハーモニーだった。
「司令室のメインコンピュータで確認を取ったのですが、司令室に来なくなってから既に一週間も経っているそうです」
「一週間!? いなくなってから、もうそんなに経つの!? うさぎさんも美奈子さんも、何も言ってなかったけど」
うさぎと美奈子のふたりからもそうだが、他の仲間たちからもそんな話は聞いていなかった。高校生組は試験勉強の真っ最中だから、司令室に行くこともなく、それで気付くのが遅れたとも考えられる。
「レイさんの様子も最近おかしいのよ。何か悩みがあるみたいで………。ちびうさちゃんの“予感”と何か関係があるかも」
霊感の強いレイである。ちびうさと同様に、何事かを感じ取っていたのかもしれないと、ほたるは考えた。
「やっぱ、なんか起こってるんじゃねーの?」
「みんなが気付かないうちにね」
ジュンジュンとベスベスがそれぞれ言った。どうしようかと言う風に、ちびうさに視線を向けた。
「ねえ、ほたるちゃん。うさぎはどうしてる?」
「なんか今日は衛さんとデートみたいよ。有栖川公園の方に向かう後ろ姿を、チラリと見掛けたけど………」
「デ、デートぉ………」
ちびうさは拍子抜けしてしまう。ルナとアルテミスが行方不明になっていると言うのに、呑気にデートを楽しんでいるとは呆れてものも言えない。それに、自分はうさぎを心配して二十世紀に遙々やってきたのだ。
「有栖川公園かぁ。とにかく、あたしはうさぎに会ってくる。もしかしたら、ルナのことも知ってるかもしれないし」
「じゃあ、あたしは司令室に行ってみるわ。あたしも状況を把握しないといけないし………。ふたりはどうするの?」
ほたるはジュンジュンとベスベスに目を向けた。ふたりはしばし目を見合わせたあと、
「んじゃ、オレたちも司令室の方に行ってみることにするよ」
そう言うと、ちびうさに視線を向ける。そうは言っても、ちびうさの許可がなければ、ふたりは勝手に動くわけにはいかない。
「うん。じゃ、夜になったら家の方に来て」
ちびうさは指示すると、頭にダイアナを載せたまま、二の橋の方に向かって走っていった。
「それじゃあ、『BOSS』は、今何が起こっているのか分からないって言うのね」
ゲームセンター“クラウン”の地下司令室にジュンジュンとベスベスを伴ってやって来たほたるは、早速司令室のメインコンピュータ―――通称BOSSから説明を受けていた。と言っても、『BOSS』も何も知らないのだから、明確な説明は一切なかった。
「ちぇっ! 役立たず」
「面目ない」
口の悪いジュンジュンが文句を言うが、当たっているだけに『BOSS』も返す言葉がない。
「でも、突然失踪するのも変だと思うわ。何か思い当たることはないの?」
「いやぁ、先日プリンスにも訊かれたんだけどね。皆目見当も付かなくて………」
申し訳なさそうに、『BOSS』は言う。
「プリンス? 衛さんはこのこと知ってるの!?」
衛が事件のことを知っていると聞かされ、ほたるは勢い込む。
「昨日知ったんですがね」
『BOSS』は昨日、衛が司令室に来て自分と話した内容を、手短にほたるに説明した。
「頼れる人が事情を知ったってことね」
「なんか、嬉しそうだね。ほたる」
うっすらと笑みを浮かべたほたるに、ベスベスが突っ込みを入れた。
「い、いえ、そんなわけじゃ………」
ほたるは焦ったような笑みを浮かべる。衛はほたるの憧れの人物でもある。事件を通して個人的に話す機会が増えるかもしれないと思い、喜びのあまり頬が緩んでしまったのだが、ベスベスは見逃さなかったと言うわけだ。
「とにかく!」
照れ隠しに、ほたるは急に声を大きくする。
「今は衛さんはうさぎさんとデートの最中だから、相談することはできないわ。あたしはこれからレイさんに会ってみようと思う。どうも、レイさんも何か知ってそうだしね」
「そんな回りくどいことしなくたってさぁ………」
大きな欠伸をしながら、ジュンジュンは言う。
「便利な人がいるんだから、その人にルナとアルテミス捜してもらえばいいじゃん」
「便利な人?」
誰のことか分からず、ほたるは首を傾げる。
「プルートだよ。あの人だったら、ちょちょいのちょいで、ルナとアルテミスの居所を捜し当てちゃうんじゃねぇのか?」
「あ………。姉さんの能力( のこと忘れてた………」)
灯台もと暗しである。
あまりにも身近にいるので、せつなの能力のことを忘れてしまっていた。と、言うより、せつなの存在自体を忘れていたのだ。
「あたいたちはプルートに会いに行って来るよ。あなたはマーズに話を聞いてよ」
「姉さんがどこにいるか分かってるの?」
「任せな! オレたちをナメてもらっちゃあ困るよ」
ちっちっちっと、ジュンジュンは人差し指を揺らす。自信満々である。
ここはどこ? あたしはどうなってしまったの………?
必死に考えてみたが、答えは見つからなかった。
意識は覚醒しているのだが、肉体は眠っていた。自分がどういう状態なのかが、全く分からなかった。
目が開かないのだ。
力を入れてみても、瞼はピクリとも動かない。指を動かしているつもりでも、動いている気配がしない。まるで石にでもなってしまったかのように、何ひとつ動かすことができない。呼吸さえしているのかも分からないほどだった。
みんなはどこ!? みんなに会いたい………! まもちゃんに会いたい………!
意識だけが悲鳴を上げている。だが、応えてくれる者は誰もいない。
助けて! 誰か助けて!!
それでも虚しく叫ぶしかなかった。
まもちゃん! 亜美ちゃん! レイちゃん! まこちゃん! 美奈P! ……ちびうさ!!
一心に祈るしかなかった。
その声が、誰かの心に届くことを信じて………。