一ノ月
「ねぇ、まもちゃん。今日のうさぎと明日のうさぎ、どっちが好き?」
柔らかな日差しが降り注ぐ日曜日の昼下がり、有栖川宮記念公園の池の畔を、うさぎと衛はいつものように散歩していた。自分たちと同じように、ふたりだけの時間を楽しんでいるカップルがそこかしこに見えるが、お互いにそんなことは気にしない。都会の中にあって、その都会の喧噪を忘れることのできる数少ない場所が、この有栖川宮記念公園だった。だから、自分たち以外の仲睦まじいカップルなど気にもならないし、気にしようとも思わない。ここは、そう言う場所だった。
「ねぇえぇ。どっちが好き?」
僅かに先を歩いていたうさぎが急に立ち止まると、とびっきりの笑顔で訊いてきた。
「なんだよ、それ………」
唐突な意味不明の質問に、衛は苦笑する。うさぎの意味不明な質問に、衛はいつも振り回される。だが、何故かそれが心地よい。答えに困るときがしばしばなのだが、その「答えに困っている自分」を「端から見ている自分」が、「楽しそうだな」と羨ましげに囁いてくる。
「ねぇ、どっち?」
一向に答えてくれない衛に対して、うさぎは三度訊いてくる。どうしても、この場で答えが欲しいようだった。
「どっちだっていいじゃないか……」
衛は呆れたような笑みを浮かべる。今目の前にいるうさぎも、明日逢うであろううさぎも、月野うさぎには代わりがない。月野うさぎが月野うさぎである以上、衛の愛は変わらない。だから、質問されても答えようがないのだ。強いて言えば、どっちも好きと答えるべきなのだろうが、自分を見つめるうさぎの瞳は、どっちかに決めろと言っている。
「よくなーい!」
案の定、うさぎは頬を膨らませる。
「何でだよ?」
衛は半ば呆れながらも、予想通りの反応を示したうさぎが、可愛くて仕方がなかった。
「今日のうさぎは、すっごく、すっごく、すっご〜〜〜くまもちゃんのことが好きだけど、明日のうさぎは、もっともっと、もぉ〜〜〜っとまもちゃんのことが好きになってるかもしれないじゃない!」
うさぎは大仰に両手を広げてそう言うと、再び頬を膨らませた。真実を知ってしまえば他愛のないことなのだが、うさぎになっては重要なことなのだろう。
「明日のうさの方が好きって、言わせたいのか?」
「うん!」
「明日のうさは、俺のことキライになっているかもしれないじゃないか………」
「そんなことないもーん!」
うさぎは跳ねるように反転した。
「明日、もう一回訊くから、今度はちゃんと答えてよね!」
公園へと続く坂を昇りながら、うさぎは悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
思えば珍しく、うさぎから夜の電話がなかった。用がなければ、衛は自分から掛けるようなことはしないから、うさぎから掛かって来なければ電話で話すことはない。
静かな夜だった。静かすぎる夜だった。
もしこの日、衛がうさぎに電話を掛けていれば、事件はもっと早く解決していたかもしれない。
衛にとっては、嵐の前の静けさだったのだ。
零時を十分程過ぎたところで、ベッドに潜り込んだ。特に眠かったわけではないのだが、起きていなければいけない理由もなかったので、寝ることにしただけである。
夢を見た。
悲しげなうさぎ―――。
自分に何かを訴えたいのだろうが、声が聞こえない。唇は動いていて、何事か話しているようなのだが、見えているはずなのに唇の動きが読めない。ただ、底知れぬ悲しさだけが伝わってくる。
手を差し伸べて助けてやりたいのだが、手を動かすどころか、体全体が動かなかった。しかし、声は出せる。
うさぎに必死に呼びかけるのだが、うさぎからは答えが返って来なかった。自分に助けを求めているのは分かる。それなのに、自分はうさぎを助けてあげることができない。
歯痒かった。
うさぎは目の前にいるのに、声を聞くことも手に触れることもできない。
「うさぁ!!」
夢の中の衛は絶叫する。それは魂の叫び。何も出来ない自分に対する腹立たしさ。救いを求める恋人に、手を差し伸べてやることの出来ない歯痒( さ。うさぎの声が聞こえてこない苛立たしさ。その全てが綯) ( い交ぜになった叫びだった。)
「まもちゃん、助けて!!」
一瞬だけ声が聞こえた。悲しきうさぎの絶叫。うさぎの魂の叫び。
同時に目が覚めた。目が覚めたことで、それが夢であったことを理解した。
「なんて、不吉な夢なんだ………」
上体を起こした衛は、額に手を当てて、軽く頭を振った。悪夢を振り払うかのように。
時刻は三時を五分ほど回ったところだった。
衛はベッドから起き上がり、窓に近付いた。カーテンを開けて、外に目を向ける。
真っ暗な夜空だった。白い月は雲に隠れてしまって、見ることはできなかった。
「まもちゃん、助けて!!」
うさぎの声が、やけにリアルに耳に残っていた。
いつもと変わらない一日。
間もなく中間テストが始まると言うこともあり、部活動は休みに入っていた。
美奈子と亜美、そしてまことは、十番高校の正門の前でうさぎが来るのを待っていた。掃除当番だったうさぎば、三人より少しばかり集合が遅れたのだ。
「遅いわね、うさぎちゃん。今日はみっちりと、数学の勉強をしようと思っているのに………」
亜美は大張り切りだった。
「亜美ちぁん。そんなに張り切らなくったって、いいのよぉ………?」
「数学」と言う言葉を聞いた美奈子は、勉強会が始まる前に牽制すべく、亜美のやる気を削ごうとする。
「期末の前に中間で稼いでおかないと、後で苦労するのは美奈なんだからね」
流石に亜美の切り返しは鋭い。ごもっともな指摘を受け、美奈子は項垂れるしかない。
「み、耳が痛いな………」
まこととて他人事ではない。一学期はギリギリセーフで赤点は免れたが、二学期も上手く行くとは限らない。亜美以外は綱渡り状態なのである。勉強会をやっていてもこの状態なのだから、勉強会をしなかったら当に脱落者が出ていたことだろう。十番高校は、それなりにレベルの高い高校なのだ。
「ごめぇ〜〜〜ん」
うさぎがドタバタと走ってきた。思っていたより、掃除に時間が掛かってしまったようだ。
「裏門から逃亡を謀ったのかと思ったわ」
「おおっ! ナイスアイディ〜ア、美奈P。そう言う手があったか」
「うさぎちゃん!」
「ごめんなしゃい、亜美ひゃん………」
もっとも、うさぎは口だけで本当に裏門から逃亡するようなことはしない。本当に逃亡するのは、美奈子の方だ。実際、前科がある。
「さぁて、行こうか」
こう言うときに号令を掛けるのは、まことの役目だった。放っておくとこの場で何時間でもしゃべってしまうのが、うさぎと美奈子なのだ。そのペースに、亜美も吊られてしまうことが多い。
この後、四人は火川神社に行くことになっている。殆ど恒例となってしまった、テスト前の勉強会である。
T・A女学院と中間テストの時期が重なるため、今回はレイの部屋で勉強会を行うことになっていた。時期がズレている場合は、十番高校組はまことの部屋を使うことが多かった。まことの部屋で勉強会を行っているときは、レイは時々しか顔を見せない。火川神社の巫女であるレイは、普段は神社の手伝いをやっているため、長時間の勉強に付き合うことはできないのである。
「テスト前の日曜日、しっかりとまもちゃんとデートした?」
今日、初めてうさぎと顔を合わすことになったまことが、火川神社に向かう道すがら、うさぎを肘で小突いた。担任の先生に用事を言い付けられてしまったまことは、いつものように仲間たちと一緒にお昼ご飯を食べられなかったのだ。
「うん! まぁね」
にこやかに笑ううさぎ。だが、何かが違った。
いつもなら、聞きもしないのにどこでなにをどうしたと、デートの様子を事細かに説明するうさぎだったのだが、何故かこの日は違った。照れたような笑みを浮かべるだけで、デートの詳細の報告がなかったのだ。
しかし、この時は誰もうさぎの異変に気付いてはいなかった。
珍しいこともあるもんだ。
誰もがそう思っていたからだ。
「うさぎちゃん。おととい教えたばかりでしょ?」
問題集の答え合わせが終わった後、亜美は呆れたように言った。
「美奈でさえ、覚えてるのに………」
「亜美ちゃん。もしかして、あたしに喧嘩売ってる?」
頬をヒクヒクさせる美奈子。まことが必死に宥めている。亜美は悪気があって言っているのではないのだ。たぶん。
「ゴメン。ちょっと、ど忘れ」
「そのど忘れが命取りになるのよ。成績優秀の衛さんの恋人が、高校で留年なんて恥ずかしいことにはならないように気を付けないとね」
嫌味を言ってきたのはレイだった。そろそろ退屈してきたので、うさぎ相手に息抜きをしたくなったのだ。果たしてレイの思惑通り、うさぎとレイのいつもの口論となる。
亜美は休憩を入れざるを得なくなってしまった。
二十時を回ると、今日はお開きとなった。そそくさと帰り支度をしてうさぎが外に出ると、亜美とまことも続く。
「ねぇ、レイちゃん」
三人が外に出たのを確認すると、レイの部屋に残っていた美奈子が、レイに向かって言った。その美奈子の表情に何か重苦しい雰囲気を感じたレイは、僅かに表情を曇らせる。
「今日のうさぎ、何か変じゃなかった?」
非常に言いにくそうに、美奈子は言った。レイに話し掛けてから、そう言い出すまでに少しばかり間があった。言おうか言うまいか迷ったあげく、口にしたというような感じだった。
「変て?」
美奈子の言っている意味が分からず、レイは聞き返した。ただ単に「変」と言われても答えようがない。ある意味、うさぎはいつも「変」だからだ。
「昼間もそう感じたのよね………。亜美ちゃんやまこちゃんは、気にならなかったみたいだけど………」
「具体的に、どう変なの?」
「うまく言えないんだけど、何となく………」
何か漠然とした意識の中で、違和感を感じたのだろう。だから、言葉にすることができないのだ。亜美やまことではなく、レイに自分の疑問を打ち明けたのは、レイが鋭い感性の持ち主だったからなのだろう。自分と同じ違和感を、レイも感じたかもしれないと思ったからに他ならない。
だが、レイはうさぎの様子の違いに気が付かなかった。少なくても、今日のうさぎは普段と何ら変わらないと思った。
「気のせいよ………」
だから、レイはそう答えた。
「そうよね………」
それでも美奈子は合点がいかないのか、口をへの字に曲げた。
「おっそぉ〜い、美奈P」
下履きに履き替えて玄関を出た美奈子を、うさぎのこの声が出迎えた。先に帰ってしまったろう思っていたのだが、亜美もまことも待ってくれていた。
(あたしの思い過ごしかな………)
うさぎの顔を見てしまうと、そう思える。うさぎは気分屋だから、日によって印象が違うときがある。今回もそうなのかもしれない。
「ごめん。ちょっとトイレ」
「お前近いよ。さっきも行ったじゃん」
こめかみの辺りをポリポリと掻いて言い訳をする美奈子に、突っ込みを入れたのはまことだった。
「お茶、飲ぉみすぎたかも」
美奈子は笑って誤魔化した。
月の綺麗な夜だった。四人は並んで一本松坂を下ってゆく。
「いつまでも、こうして歩いていたいわね」
星空を見上げながら、ぽつりと亜美が言った。戦いさえなければ、いつまでも普通の女の子でいられる。自分たちが戦う必要のない時代が来るとは思えない。しかし、いつまでもこうしてのんびりと過ごせる日々が続けばいいと思っていた。
レイは祈祷の炎の前に座していた。
美奈子の言ったことが、少なからず気になっていたからだ。
美奈子は四守護神としての自分たちのリーダーである。そのリーダーが不信に感じたと言うのならば、何らかの要因があってのことだ。
「オン・バザラヤキャシャ・ウン。オン・バザラヤキャシャ・ウン………」
レイは印を結び、一心に祈祷を捧げた。金剛夜叉明王の力を借り、疑問を取り除こうと考えたのだが、レイの祈祷も虚しく、神が光臨することはなかった。
「ふぅ………」
何の変化も見せない炎を見つめながら、レイは大きく息を吐く。
「人には頼るなってことかしらね」
額に浮かんだ汗を拭いながら、レイは呟いた。
「何を知りたいんじゃ?」
背後からの声にビクリとして、レイは振り返った。いつの間にか祖父が、レイの二メートル程後ろに座していた。
「一心に祈っていたのでな、声を掛けなかった」
祖父はすっかり白くなった口髭を右手で撫でながら、優しい笑みを浮かべた。祈祷に集中していたので、祖父が入ってきたことに気が付かなかったことに、レイは苦笑する。
「分からないの………」
レイは呟く。けっして充分な説明ではなかったにも関わらず、祖父は肯いてくれた。
「まずは、何を知りたいのかをはっきりさせなさい。金剛夜叉明王様も万能ではない。お前が何を知りたいのかが分からなければ、手を差し伸べようにも無理があろう。祈祷を行う前に、よく吟味しなくてはな」
祖父は慈愛の隠った瞳で、レイを見つめた。
「ありがとう。お爺ちゃん」
どうやら、祈祷は成功していたようである。祖父の言葉は、レイに今何をすべきなのかを的確に伝えていたのである。
その日の夜も、うさぎから電話が掛かってことなかった。もっとも、大学の友人たちと二十二時頃まで田町の居酒屋で飲んでいたので、アパートに戻った頃には二十三時近かった。
うさぎから電話が掛かってくるかもしれないと思ったから、カラオケに誘われたのを丁重に断って帰宅したのだが、どうやら気の回しすぎだったようだ。留守電にメッセージが入っているかとも思ったが、入っていたのはカラオケに向かった友人たちからの冷やかしのメッセージだけだった。
「ちょっと、この時間は掛けづらいな………」
確か今日は逢うはずだったと思いながらも、うさぎからの連絡がなかったことが、少し気懸かりだった。テスト勉強があるので待ち合わせはしていないので、衛としてはうさぎからの連絡を待つしかない。だが、二十三時を回ったこの時間に、うさぎが外出するはずもない。
合い鍵を持っているから、アパートで待っている可能性もあると思って帰ってきたのだが、うさぎが来た形跡はなかった。
「忘れたかな?」
うさぎが約束を忘れるのはよくあることだった。恐らく、明日辺り謝りの電話が掛かってくるだろう。
そう思ったから、衛は自分から電話を掛けるのはやめることにした。
不吉な夢は、この日は見ることはなかった。