星祭りの夜





 雨がシトシトと降っていた。
 こういう日は、誰しもセンチメンタルな気分になるものである。
 うさぎも例外ではなかった。KO大学に程近い喫茶店で、窓際の席で通りを見つめながら、ひとりカプチーノを飲んでいた。
 普段なら、うさぎはカプチーノは飲まない。実際、注文したカプチーノには殆ど口を付けていない。すっかり冷めてしまっている。
「ここのカプチーノは美味いんだぜ」
 衛がよく言っていた。ふたりでこの喫茶店に入るときは、衛は必ずカプチーノを注文していた。この喫茶店のカプチーノは、衛のお気に入りなのである。
 店内には常にジャズが流れ、静かで落ち着いた雰囲気が漂う。ウェイトレスはおらず、店のオーナーらしい中年の男性が注文を取りに来て、また、品を運んでくる。口髭がよく似合う、ダンディーな紳士だった。
 座るのは、いつも決まって窓際のこの席。うさぎのお小遣いから換算すると、割高感のあるこの喫茶店は、何度も来ているが満席の状態を見たことがなかった。一杯百八十円程度のコーヒーに慣れているうさぎにとっては、一番安くても七百円はするコーヒーはおいそれとは飲めない。行き付けのパーラー“クラウン”も、ホットコーヒーは三百八十円である。
 客の顔ぶれもあまり変わらない。会社の役員風の男性や、ブティックのオーナーらしい女性、アーチストっぽい風変わりな男性の姿をよく見掛ける。学生や若いサラリーマンの姿は殆ど見掛けたことがない。他の喫茶店に比べると割高なこの店は、ちょっと休憩をとる程度に立ち寄るには、少しばかり高級のようだ。
 だから、いつしかこの席がふたりの専用席になってしまっていたのだ。この店の常連も、この席を利用することはない。それぞれが好みの席を持っているからだ。うさぎと衛は初めからそこが自分たちに与えられた場所であるかのように、来店するとその席を使うようになっていた。
 だが、ここ半年はうさぎひとりでしか座っていない。
 ふたりは週に一‐二度この店に来て、ゆったりした時間を過ごしていた。この店にいるときは、おしゃべり好きのうさぎも、流石に大人しくミルクティーを飲んでいた。紅茶系のメニューは実はこの店にはないのだが、オーナーが特別に作ってくれるのだ。これがまた、格別に美味しかった。行きつけの“クラウン”のオーナーには悪いが、この店のミルクティーの方が数倍美味しいと思えた。
 甘い香りが鼻孔をくすぐった。オーナーがミルクティーを運んで来てくれたのだ。
「いらっしゃいませ」
 オーナーはうさぎの顔を見てにっこりと笑うと、うさぎの前にミルクティーを置いた。よく見ると、カプチーノはうさぎの前ではなく、正面の椅子の前に置かれていた。半年前まで、衛が座っていた席である。
 オーナーはうさぎが常に遅刻をしてくるのを知っている。だから、カプチーノを出した三十分後に、うさぎの為のミルクティーを運んでくるのだ。もちろん、うさぎは注文していない。オーナーのサービスである。以前、お金を払おうとしたのだが、オーナーは頑として受け取らなかったのだ。
「わたしの気まぐれですから、気になさらずに」
 オーナーはそう言って、にっこりと笑ったものだ。

「あのぅ」
 遠慮がちな声が、幻想に浸っていたうさぎを、現実の世界に引き戻した。窓の外に向けていた視線を、声が聞こえた店内に戻した。
 ふたり組の女性が、自分のいるテーブルの横に立っていた。自分より歳は上に思えた。大学生だろうか。
「人違いだったらごめんね。あなた、もしかして月野うさぎさん?」
 うさぎから見て、右側の女性が訊いてきた。
「は、はい。そうですけど………」
 うさぎは驚いて、その女性の顔を見つめた。見ず知らずの女性に突然名前を呼ばれれば、誰だって驚くだろう。
「ごめんね、突然。驚かせちゃったわね」
 女性は言いながら、うさぎの正面の空いている席に腰を下ろした。もうひとりの女性は立ったままである。
「あっ。自己紹介しないとね。あたしは、北斗真奈美。こっちは親友の鹿島優子」
「宜しくうさちゃん。あ、うさちゃんでいいよね」
 鹿島優子と紹介された女性は、にっこりと微笑みながら言った。うさぎが腰掛けているのは、四人掛けのテーブルである。既に腰を下ろしている女性の隣が空いているにも関わらず、彼女は腰を下ろそうとはしなかった。
「あ、あのぅ………」
 うさぎには事態がまだ飲み込めていなかった。何故このふたりは、自分のことを知っているのだろうか。
「あたしたち、ちーくんの友だちなんだ」
 うさぎの疑問を感じ取ったのか、優子が言った。しかし、再びうさぎは首を傾げる。
「ごめんね。『ちーくん』て、地場 衛くんのこと」
 真奈美が補足した。
「まもちゃんの………? 大学のお知り合いの方ですか?」
 うさぎはそれでも怪訝顔だ。衛の知り合いだと言われても、自分のことを知っていると言う理由にはならない。それに衛のことを、自分の知らない「ちーくん」と言う愛称で呼ぶのも気に入らなかった。
「ほら、優子。やめておけばよかったじゃない。彼女、滅茶苦茶疑わしげな視線でわたしたちのこと見てるじゃないの!」
 真奈美が、未だに立ったままの優子を見上げた。その言葉から、声を掛けようと言い出したのが優子だと言うことが分かる。
 うさぎも同様にして、優子を見上げた。
「ごめん。ちょっと気になっちゃってさ」
 優子はちょっと困ったような表情をする。
「外から見えたんだよね、うさちゃんのこと。寂しそうだったしさ……。あたしたちが、目の前通ったの、気付いてないでしょ?」
 うさぎは素直に肯いた。確かに外を眺めてはいたが、見ていたわけではない。ふたりが自分の目の前を通ったことなど、全く記憶にない。
「でも、どうしてあたしだって分かったんですか?」
 自分の疑問になかなか気付いてくれそうにないので、うさぎは自分から質問することにした。
「お団子頭……かな?」
 正面に座っている真奈美が言った。
「けっこう有名よ、『お団子頭』のちーくんのカノジョ。ちーくんを狙ってるコ多いから、すぐ噂になるのよね」
「ちーくん、格好いいからね」
 真奈美の言葉に、優子が相槌を打つ。衛が大学でモテていたと言う話は、宇奈月などから聞いて知っていたから、うさぎは別に驚かなかった。それに衛は「格好いい」なのだから、モテて当然だと言う考えもあった。
「まぁ、わたしたちも、ちーくん激ラブではあるんだけど……。あ、勘違いしないでね。別に宣戦布告しに来たわけじゃないから」
 真奈美が言った。
 うさぎには、まだ彼女たちが言わんとしていることが理解できていない。ただ自分に対して敵意も感じないから、黙ってふたりの話を聞くことにした。
 うさぎが衛のカノジョであると言う話は、KO大学では有名な話であるらしい。時折敵意丸出しで、嫌みを言ってくる女性もいるし、商店街で嫌がらせを受けたこともある。だが、今目の前にいるふたりの女性は、そう言った類の者たちではないと感じ取れた。
「ちーくんから、最近連絡あった?」
「え!?」
 突然の真奈美からの質問に、うさぎはドキリとした。
 首を横に振った。
 連絡がないのである。先日の自分の誕生日にも連絡がなかった。出会ってから初めてのことである。
「やっぱりね………」
 真奈美は小さく溜め息を付いた。何か事情を知っている風な口振りだった。
「ちーくんてさ、意外と乙女心分からないだよね」
 優子が肩を竦めてみせる。
「仕方ない! 真奈美お姉さんが、ひと肌脱いでやるか!」
 そう言うと、真奈美は元気よく席を立った。
「うさちゃん。夕方六時に一の橋公園に来て。夜は遅くなるから、ちゃんとご両親には言って来るのよ!」
 うさぎは真奈美の顔を見上げたまま、きょとんとしている。何が何だか、よく分かっていない。
「そうとなったら、準備だ。優子、大学に戻るよ!」
 言うが早いか、真奈美は喫茶店を飛び出していた。外から店内を覗き込み、優子に早く出てくるように手招きをしている。
「やれやれ、真奈美のお節介病が始まっちゃったわ」
 優子は大きく溜め息を吐く。そして、未だ不思議そうな顔をしているうさぎに、視線を落とした。
「あたしらってさ、確かにちーくん激ラブではあるんだけど、うさちゃんのファンでもあるんだよね」
 優子は不思議なことを言った。
「あのちーくんをホレさせるような女の子に、悪い子はいないはずだって言う、あたしらの勝手な思い込みなんだけどね。……やっぱりうさちゃんは、あたしたちが思ってた通りの子だよ。だから、真奈美がお節介焼きたくなったんだよ」
 優子はここで、うさぎの肩をポンと軽く叩いた。
「ここのカプチーノはちーくんのお気に入り。そしてここはちーくんがカノジョとのデートによく使っているお店。カプチーノに不釣り合いなお団子頭の女の子が、ひとり寂しそうに外を眺めてる……。外から見たとき、一発で分かったんだ。ちーくんのカノジョだって」
 外で待っている真奈美が、そろそろ怒り出している。優子はすぐ行くとゼスチャーしてから、もう一度うさぎの顔を見た。
「六時に一の橋公園だよ! ちゃんと来るんだよ!」
 そう言うと、優子も喫茶店を後にした。
 残されたうさぎは、まるで狸にでも化かされたような気分だった。
「あのふたりは悪い子たちじゃない。騙されたと思って、行ってごらんなさい」
 いつの間にか近くに来ていたオーナーが、優しげに微笑みながらそう言った。

 雨は上がっていた。
 西の空には、綺麗な夕焼けも見える。
 うさぎは一の橋公園のベンチに腰掛けて、真奈美と優子のふたりが来るのを待った。
 こうしてベンチに腰掛けていると、衛を待っている気分になる。自分が待つことは少ないのだが、待っているときは不安になったりもする。
 もし、来なかったらどうしよう……。
 衛に限って、そんなことはないのだが、どうしてもそう考えてしまうときがあった。
 自分に自身がないからである。
 ハンサムにして秀才。モテると言う話を聞けば聞くほど、衛の恋人は本当に自分でいいのかとも考えてしまう。衛には、もっとふさわしい女性がいるのではないかと。
 その能力を高く評価されドイツへの留学が決まった時も、嬉しかった反面、何か遠い存在になってしまったような気がして、寂しかった。
「ごめーん、遅れて!」
 交番の横のトンネルを潜って、優子が姿を現した。
「さぁ、行くよ!」
 ベンチに座っていたうさぎの手を取り、立たせる。
「行くって、どこにですか?」
「いいトコよ! 向こうで真奈美が待ってるから、急ご!」
 優子はうさぎの手を引っ張る。
 優子が潜ってきたトンネルを抜けると、ハザードランプを点滅させている真っ赤なセリカGT−FOURが見えた。
「あたしが後ろに乗るから」
 助手席側のドアを開けてシートを倒すと、優子は後部座席に潜り込んだ。
「さっ! 乗って!」
 シートを元に戻すと、運転席から真奈美が声を掛けてきた。
 うさぎは助手席に乗り込むと、ドアを閉めた。
「さぁ! 飛ばすよぉ!」
 うさぎがシートベルトをする間もなく、真っ赤なセリカは甲高くタイヤを鳴らして走り出した。
「真奈美ぃ! スピード違反で捕まったら、洒落んなんないよ!」
 後部座席で優子がぼやいた。

 どこをどう走ったのかうさぎには分からないが、気が付くと練馬の料金所から関越自動車道に乗っていた。小気味よいテクノのBGMに、真奈美は上機嫌でアクセルを踏み込んでいる。
 花園で降りて秩父方面へ向かう。
 陽はすっかり沈んでいた。
 空には星が輝き始めている。
 山道に入る。うさぎには、もうここがどこなのか分からなかった。
 高速を降りてから小一時間は走っただろうか。一の橋公園を出発してから、そろそろ三時間になる。
 真奈美は手慣れたハンドルさばきで、峠道をすいすいとセリカを滑らせている。
「この辺でいいかな」
 前方にお茶屋らしき建物が見えたところで真奈美は言うと、かつては砂利が敷き詰められていただろう駐車場にセリカを止めた。
 お茶屋の入り口には板が打ち付けられていた。建物の傷み具合から、営業を停止してから随分と経っているだろうと言うことが推測できる。飲み物の自動販売機の明かりが、妙に明るく感じた。自動販売機だけは、現役のようだった。
「さっ! 降りよ!」
 真奈美は言うと、エンジンを停止させた。ドアを開け、セリカを降りた。
「う〜〜〜ん」
 大きく伸びをした。
 うさぎもドアを開け、セリカから降りた。後部座席を覗いてみると、優子がすやすやと寝息を立てている。途中からしゃべり声が聞こえなくなったと思ったら、どうやら寝てしまっていたようだった。
「いいよ、寝かしとこ!」
 真奈美は既に気付いていたらしい。
「うさちゃん、上見てみなよ」
 うさぎは真奈美に言われるままに、上空を見上げた。
「わぁ♪」
 美しい星空が一面に広がっていた。昼間に雨が降っていたなんて、とても考えられなかった。
「雨が降ったお陰で大気中の埃が洗い流されたから、今日はいつになく綺麗に見えるね」
 真奈美も意外だったと言う表情で、星空を見上げている。
「綺麗……」
 都会にいては、こんな星空を眺めることはできない。うさぎは感動のあまり言葉を失って、しばし星空を見上げていた。
「今日、何の日か知ってる?」
 不意に真奈美が訊いてきた。うさぎは少し考えると、すぐに今日が何の日か思い出した。
「七夕ですね」
「うん。一年に一度、織姫様と彦星様が再会する聖なる夜……。でも、一年に一回だけなんて、耐えられないよね。好きな人とは、いつも一緒にいたいよね」
 真奈美の言葉に、うさぎは視線を落とした。胸が苦しくなる。衛のことを思い出してしまった。
「ちーくんは彦星のつもりでいるかもしれないけど、うさちゃんは織姫にはなりたくないよね?」
 言いながら真奈美は助手席側のドアを開けると、優子を起こさないように気を遣いながら、後部座席からスポーツバッグを取り出した。中からノートパソコンを取り出す。セリカの屋根に置いて電源を入れ、パソコンを立ち上げた。
「一週間遅れだけど、あたしと優子からの誕生日プレゼントだよ」
 画面がうさぎに見えるように、ノートパソコンの位置を動かした。窓が開いている。何かをロードしていた。そして―――。
「元気か? うさ」
 スピーカーから、懐かしい声が聞こえた。いや、声だけではない。画面には衛の顔が映っていた。画質が荒く、動きもぎこちないが、そこには動いている衛が写っていた。
「ビデオメールだよ。大学の研究室にいたちーくんをとっ捕まえて、速攻で作らせた」
 真奈美が説明したが、もはやうさぎの耳には届いていなかった。うさぎは画面を見つめたまま、大粒の涙を流しながら、映像の衛の言葉に肯いていた。
 五分ほどの短いメールだったが、うさぎにはそれで充分だった。
「うさが夏休みに入る頃には、帰れると思う」
 衛はそう締めくくった。
 夏休みにまもちゃんが帰ってくる。
 そう分かっただけでも、うさぎの気持ちは楽になった。
「うさちゃん、明日うちの大学においで」
 映像が終わったのを確認すると、真奈美は言った。
「今度はうさちゃんのビデオメール作って、ちーくんに送ってやろう! とびっきりの素敵なカッコしてさ、ちーくんが早く帰って来たくなるような気分にさせてやろうよ!」
「ありがとうございます。でも、今日初めて会ったのに、どうしてそこまでしてくれるんですか?」
「初めてじゃないよ」
 真奈美は踊るようにくるりと一回転しながら、うさぎの側を離れた。
「優子は今日初めてだけど、わたしは何度かうさちゃんには会ってるんだ。うさちゃんが、気付いてなかっただけだよ」
 真奈美はここでもう一度くるりと回転すると、うさぎの顔を見てにっこりと笑った。
「ちーくんとうさちゃんのアツアツぶりは、何度も見てるんだ。そしたらね、そのうち、うさちゃんのことも大好きになっちゃって……。幸せそうなうさちゃんの顔、とっても輝いてた。だから、そんな笑顔を守りたいなって……。母性愛ってやつかな?」
 真奈美は照れたように笑った。
「がんばろうよ、うさちゃん。わたし、応援するからさ! ううん。うさちゃんだけじゃない。ちーくんや優子も、ずっとずっと応援する! だから、がんばろうね! ちーくんが立派になって帰ってくるまで、笑顔で待っていようよ! 今日みたいな寂しそうな顔してちゃダメだよ!」
「はい!」
 うさぎは嬉しかった。自分の知らないところで、自分を応援してくれてた人がいたことに。そして、その人と出会えたことに。この日のことは、たぶん一生忘れないだろうと思う。
「ありがとう、真奈美さん。あたし、がんばります!」
 うさぎの笑顔は輝いていた。昼間見せていた悲しげな表情は、もうどこかに隠れてしまった。
 真奈美はそのうさぎの顔を見ると、嬉しそうに肯いた。
「あ〜ん! 着いたんだったら、起こしてよぉ〜。真奈美の意地悪ぅ〜」
 優子がゴソゴソと、真っ赤なセリカから這い出すようにして出てきた。
 うさぎと真奈美は顔を見合わせると、楽しげに微笑んだ。
 空一面に、美しい星が輝いていた。
 三人は並んで、しばらくの間、その星空を眺めていた。




あとがき

 諸般の事情があり、公開を停止していた作品です。再公開に当たり、オリジナルに変更致しました。
 ストーリーの時間軸は「血色の十字軍」のお話が始まる少し前に当たります。同人誌版「血色の十字軍」に収録している番外編シリーズの1作品として再掲載を予定していたのですが、同人誌の発行が延び延びになってしまっているのでホームページ上で再公開することに致しました。 
 それにしても……セリカのGT−FOURなんて、今じゃ殆ど見掛けないよなぁ……(^^ゞ                                

    2001.8.24公開(旧作品)
    2009.1.25再公開(オリジナル版)