旅立ちの前に




 壮絶な戦いを経験したうさぎたちにとって、麻布十番商店街の風景は、呆れるほどのどかなものだった。この場所は、戦いの前と後でも何ら変わるものはない。商店街をのんびりと歩いていると、自分たちが戦士であることを忘れることが出来る。
「やっぱり、ホッとするね」
 衛と並んで商店街を歩きながら、うさぎは感慨深げに言った。見慣れた街並みでも、久しぶりに目にすると何だか新鮮な感じがした。
「無関係な日常があるってことは、嬉しいことだと思わなくちゃいけない」
 衛は顔を幾分傾けて、横を歩くうさぎを見下ろした。戦いとは全く無縁な人々が、こうして日常を送っていることは、むしろ喜ぶべきことだ。こうした人々が、戦いに巻き込まれる事態に陥ってはならない。そのために、自分たちがいるのだ。
「あ! なるちゃんと海野だ」
 うさぎは六本木方面から仲良く並んで歩いてくる、なるちゃんと海野の姿を見付けて声を上げた。ふたりもこちらに気付いたようだ。小走りに走り寄ってきた。
「お帰り、うさぎ」
 うさぎの顔を見詰め、ちょっと間を置いてからなるちゃんは言ってきた。なるちゃんと海野は、うさぎたちが“戦士”であることを知っていた。うさぎたちが麻布十番を離れている間も、元基と協力して情報収集に当たってくれていたと、ルナから聞いている。なるちゃんや海野、そして元基のような影で支えてくれる仲間たちがいるからこそ、自分たちは安心して戦えるのだということを、うさぎはなるちゃんの「お帰り」のひと言で、改めて実感した。
「ただいま」
 うさぎは笑みながら、なるちゃんに答えた。
「夏休みの宿題、早くやらなくちゃね。海野に手伝わせるから」
「宿題は自分の力で……。モゴっ」
「いいから、あんたは手伝いなさい」
 なるちゃんに睨まれると、海野も「ハイ」と言わざるを得ないらしい。まだ何か言いたそうだったが、海野は渋々承諾した。
「それがさぁ……」
 とてもありがたい申し出だし、自分としても早く日常の生活に戻りたいところなのだが、うさぎは表情を曇らせる。
「まだ、終わってないんだ」
 宿題に追われる日常が、遠い別次元の生活のような気がして、うさぎは無性に悲しかった。
「そうなんだ……。じゃあ、またどこかに行っちゃうんだ」
「うん。今度は少し時間が掛かるかもしれない」
「そっか……。じゃ、宿題はまこちゃんの分と合わせて、出来るところはあたしたちでやっておくよ。でも、うさぎの分も残しておくから、帰ってきたら、ちゃんと自分でやりなさいよ」
 なるちゃんのその言葉の裏には、「必ず無事に帰って来い」と言う意味が隠れていた。うさぎは、なるちゃんが本当に言いたかったことを、しっかりと受け止める。
「うん。一緒に宿題やろうね」
 うさぎは笑顔で答えた。

 ゲームセンター“クラウン”の地下司令室では、ルナと夏恋のふたりが、ほたると向かい合って神妙な顔をしていた。
「宇宙(おおぞら)さんの話だと、姉さんがいなくなる前日に、日本人の女性が訪ねて来たらしいんです」
 ほたるは泣きそうな顔をしていた。それというのも、今朝方アメリカに渡っている宇宙翔から、せつなが行方不明になったと連絡が入ったからだ。
 せつなは几帳面な性格である。出掛けるならば、翔にひと言連絡をしてから出掛けるであろうし、本来の目的を差し置いてまで先に片付けなければならないことがあるとは、今のところ考えづらい。
「せつなを訪ねた女性ってのが、何か関係しているかもしれないね」
 夏恋は眉根を寄せる。
「心当たりは?」
「姉さんを訪ねたのは、女性のふたり組だそうです。はるか姉さんとみちる姉さんという可能性もあるんですけど……」
「ふたりに連絡してみたかい?」
「ええ、すぐに。でも、ふたりともいないんです」
「いない? 自宅にいないってことかい?」
「ええ……。今あたしたちが使っているような通信機を持ち歩いているわけでもないので、連絡もつかないんです」
 ほたるは言いながら、腕時計型の通信機を示した。不格好ではないが、お洒落なデザインとも言い難い。どちらかと言えば子供っぽさがある。夏恋ははるかとみちるを知らなかったが、伝え聞くところによると、こういった子供っぽいデザインのアイテムを好んで使う女性たちではないらしい。
「じゃあ、決まりでいいんじゃないか? そのふたりもセーラー戦士なんだろう? 目的があって、せつなに会いに行ったんじゃないのかい?」
「夏恋さんが言うように、あたしもそう思いたいけどね。だけど、ほたるちゃんは、そうじゃないと考えてるんでしょ?」
 ルナが間に入って言ってきた。今はネコの姿をしていて、夏恋の胸に抱かれていた。
「はるか姉さんとみちる姉さんが動くんなら、あたしにも連絡があってもいいと思うんです。それに、ふたりはどうやってせつな姉さんがNASAにいることを知ったんでしょう?」
「せつなの方から連絡をしないかぎりは、ふたりは知るはずがない……か。そう言われると、あたしも気になって来たよ。だけど、せつなの方から連絡したって可能性は?」
「翔さんの話では、せつなさんは来訪者に驚いていたらしいわ。誰かを呼び寄せていたんだとしたら、そんな反応はしないんじゃないかしら」
 ルナだった。
「仮にはるか姉さんたちだったとしても、その後の連絡が何もないと言うのは、おかしいと思うんです」
 ほたるの目は潤んでいた。今にも涙がこぼれ落ちそうだ。
 夏恋はそんなほたるの顔を見ていることが辛くて、ほたるから視線を逸らした。そのまま顔を下に向け、ルナに「どうする?」と目顔で尋ねた。
「あのせつなさんが、無断で行動するのは、ちょっとおかしいわよね」
 ルナは少し考えてから、「誰かに現地に行ってもらいましょう」と言った。
「誰に行ってもらう?」
「適任者がいるじゃない。ね?」
 そう言ってルナは、ほたるに向かってウインクした。

「分かったけどさぁ……」
 話を聞いて納得した大道寺だったが、困ったような情けないような、複雑な表情を浮かべた。
 場所は司令室。ルナによって呼び出された、大道寺、美園、美奈子とアルテミスの四人が、ミーティングに参加していた。
「何か問題があるの?」
 大道寺の横にいる美園が、胡乱げに尋ねる。
「地場クンが駄目と言うとは思えないけど?」
「地場はいいって言うだろうさ」
「じゃあ、何が問題なのよ?」
 即決しなかった大道寺に腹を立てているのか、ほたるは少しばかり苛立たしげに訊いた。せつなの一大事かもしれないのだ。何を迷う必要があるというのだろう。
「NASAまで行く旅費がない!」
 きっぱりと大道寺は断言した。氷点下の風が、司令室を吹き抜ける。探偵事務所は休業状態。確かに収入のない大道寺には大問題であろう。NASAに行くどころか、来月の事務所の家賃も払えない有様らしい。光熱費は、既に二ヶ月分が滞納中だと言うことだ。
「さ、三条院に言えば、それくらいポンと出してくれるって」
「な、なびきが出してくれるんじゃないか?」
 美園と夏恋が、即座に言ってきた。三条院もなびきも大財閥の跡継ぎである。一般庶民には信じられないくらいの小遣いを貰っている。……はずである。
「なに現実的なこと言ってんだか」
 美奈子が呆れて肩を竦(すく)める。
「〈シャトー・ブラン〉か〈モンレアル〉を借りればいいじゃん」
 ジェラール所有の飛空艇である。彼の騎士団の移動手段でもあるので、どちらか一隻は必要になってくるばずだが、二隻は必要ない。
「利用できる物は、何でも使わないとね」
「美奈から頼めば、ジェラールも快く貸してくれるだろう。使わせてもらえよ」
 アルテミスが言ってきた。とは言え、それならばそれで問題が発生してくる。
「それはありがたい話なんだが、俺はそんなもの動かしたことないぞ? 三条院ならクルーザーくらい操船できるだろうけど、俺は生憎と、自動車の普通免許と自動二輪しか持っていない」
 深刻な問題である。借りたのはいいが、動かせる者がいないのでは意味がない。
「運転手付きで借りてあげるわよ。美奈子ちゃんに任せなさ〜い!」
 美奈子は自分の胸を、ドンと叩いた。
「じゃ、決まりね」
 ルナのひと言は、これでこの話は打ち切るという宣言であった。メイドも付けて欲しいという大道寺の希望は、誰もが聞かなかったことにした。

 そのジェラールたち騎士団は、ブラッディ・クルセイダースの本拠地が存在していた孤島で待機していた。
 島の地下より発進した戦闘艦〈カテドラル〉の影響で、半ば崩壊してしまった小島だったが、完全に海の藻屑となったわけではなかった。〈ノアの方舟号〉他二隻の飛空艇と、ジェラールの騎士団が一時的に滞在するのに充分なスペースは残っていた。
 囚われていた人々とお台場で別れた後、彼らはここまで移動してきて待機していた。これだけの大所帯である。密かに待機するためには、無人島のような場所しか考えられなかった。カテドラル島が残っていたのは、幸運だったのだ。ここならば目立たないし、それにある程度の食料は調達できる。何しろ、周囲が海に囲まれているので魚介類は豊富だ。
「うむ。了解した。それでは〈モンレアル〉を貸そう。オーギュストをリーダーとして、操船のためのスタッフも付ける。そっちはジェダイト殿ひとりか?」
 飛空艇シャトー・ブランのブリッジにあるメインスクリーンに、美奈子の顔が映っていた。司令室で決を採った直後、美奈子はカテドラル島で待機しているジェラールと通信回線を開き、事の次第を説明したというわけだ。
「ほたるも行くわ。あと、そっちにいるエロスとヒメロスも同行させる」
「そうだな、その方がいいだろう。オーギュストと彼らは面識がないのも同じだ。彼女たちが間に入ってくれた方がスムーズだ」
「じゃあ、そう言うことで。よろしくね!」
 キュートなウインクを送ると、美奈子は通信を切った。スクリーンがブラックアウトする。
「しかし、随分とのんびりしているのだな。バベルの塔へは、まだ向かわんのか?」
 三メートル後方からジェラールと美奈子のやり取りを見ていたヴィクトールが、やや不満そうな口振りでそう言いながら、大股で歩み寄ってきた。
「彼女たちは、普段はハイスクールに通う少女たちだ。自宅を長期で空けるとなると、色々と下準備も必要なのだろう」
「面倒くさいのだな」
「それだけ、彼女たちが本気だということだ。相手が相手だからな」
「ネフィルム・エンパイアか……。お前はどの程度知っているんだ?」
「ヴィクトールと同程度の知識しかない。ディールを失ったのは痛いな。ギルガメシュが、素直に俺たちと手を組んでくれればいいが」
「お前とギルガメシュは、ソリが合わなかったからな」
 ヴィクトールのその言葉には、ジェラールは苦笑で答えただけだった。

 仙台坂上の交差点を左に折れ、火川神社へ足を向けたまことは、仙台坂を登ってくる人物の姿を認めて足を止めた。見覚えのある女性だった。あの特徴ある髪型は、一度見ると忘れられない。“クロワッサンヘア”とうさぎが言っていたのを思い出した。転校生の黒月晶だ。学年は同じ三年生だが、歳はひとつ上だと聞いている。
 相手もこちらに気付いたようだ。まことの姿を認めると、おやと言うような表情を見せてから、柔らかい笑みを浮かべた。
「こんにちは。木野さんでしたっけ?」
「自己紹介したことあったっけ?」
 晶が自分の名前を知っていたので、まことは少なからず驚いた。“噂”を聞いているだけで、まことは彼女とは直接の交流がないからだ。八方美人のうさぎとて、「知っている」という程度の関係でしかないはずだ。
「あら、そうだったかしら」
 晶は考えるように小首を傾げて見せたが、その瞳は確信犯の目のようだった。知っていて惚けている。そんな目だった。
「じゃあ、あたしは急ぐから」
 ぶっきらぼうにまことはそう言うと、晶とすれ違った。その瞬間、電気が走った。パチリという火花も散ったような気がした。
「!?」
 まことは慌ててその場を飛び退いたが、晶は動じることなくその場に佇んでいた。
「どうやら、あたしたちは相性が悪いみたい」
 晶はクスリと笑った。初めて言葉を交わしたときも、同じような現象が起こったことをまことは思い出した。
「あんたも帯電体質?」
「さぁ、どうかしらね。自覚はないけど」
 晶は肩を竦(すく)めた。相変わらず、確信犯的な目をしていた。こうなることも予測していた目だ。
「あんた、何を隠してるんだ?」
 だから、まことは訊いてみたくなった。彼女が何を知っていて、何を隠しているのかを。
「今は、その時期じゃないわ」
 晶はあっさりと認めた。自分が何かを知っていて、何かを隠しているということを。
「お前、何者だ?」
 まことは凄んでみせた。自分の直感が教えてくれている。黒月晶は「敵」だ。
「気の短い人ね。そんなんじゃ、命が幾つあったって足りないわよ」
「なに!?」
「ひとつだけ教えてあげるわ。……あなた、死相が出てるわよ」
 全てを見透かしたような目で、晶はまことを見詰めてきた。まことは思わず、二−三歩後退した。まるで、自分の死をその目で見てきたかのような口振りで、晶が言ったからだ。
「……あたしを動揺させようって作戦かい?」
 平静を装ったつもりだったが、声が僅かに震えてしまった。
「あたしは忠告をしただけよ、セーラージュピター」
「!?」
「そんなに驚くこと? あなたは、あたしを敵だと感じたのでしょう? それならば、あなたの正体をあたしが知っていても、何ら不思議じゃないと思うけど?」
「……」
 まことは何かを言い返そうかと思ったが、ひゅうという吐息が口から漏れただけだった。自分は晶に、完全に圧倒されている。
「ネフィルム・エンパイアは、今まであなたたちが戦ってきたような“個”の集団である敵とは違うわ。もしも勝つことが出来たなら、あたしの正体を教えてあげる」
 晶はそう言うと、ボリュームある髪をふわりと波打たせて、その場から優雅な足取りで立ち去っていた。まことはその場に茫然と佇み、彼女の背中を見詰めることしか出来なかった。

「お〜い! もなかちゃん」
 十番ストアの前を通り掛かったもなかは、その野太い声に足を止めた。首を巡らすと「こっちだ」と、通りの反対側から聞こえてきたので、もなかはそちらに顔を向けた。
 相変わらず無精髭を生やした日暮が、今日は珍しくスーツ姿で手を振っている。なので、すぐには誰だか分からなかった。
「日暮のおじさん!」
 もなかは道路を横切り、日暮の元へとやってくる。十番ストアが面している通りは、二車線あるものの普段は車通りも少なく、道幅も広い方ではない。それでももなかは、慎重に左右を確認してから横断してきた。その仕草がとても可愛らしかったので、日暮は思わず笑みを零す。
「なんだい、その荷物は?」
 もなかが大きなスポーツバッグを重そうに運んでいるのを目にし、日暮は目を丸くした。まるで旅行にでも行くような大荷物だ。
「お母さんに、うさお姉たちと湘南に旅行に行くって言っちゃったから、手ぶらで出てくることができなくって……」
 もなかは僅かに首を傾けながら、「てへへ」と笑った。
「昨日帰ってきたばかりなのに、もう行くのか?」
 日暮は緩んでいた表情を引き締めた。日暮の濃紺色のスーツから、ほんのりと防虫剤の臭いが漂ってきた。
「はい、今夜。有栖川公園に乃亜ちゃんが迎えに来てくれることになってます」
 激しい戦いに身を投じていくことになるはずなのだが、もなかは不安な様子を微塵も見せなかった。強い娘だと、日暮は思う。
「おいおい。その大荷物を持って行くつもりかい?」
 だから日暮も、悲痛な表情は見せなかった。この娘たちは死にに行くわけではない。自分が悲しげな表情を見せてどうする。日暮は無理に笑って、萎(しぼ)んでいた気持ちを奮い立たせた。
「そうなんですよね。持って出てきたのはいいんですけど、正直困っちゃってるんです」
「だろうな。じゃあ、帰ってくるまで、俺が預かっていようか?」
「ホントですか!? じゃあ、お願いします!!」
 もなかは両手で、スポーツバッグを差し出してきた。日暮は右手を伸ばして、それを受け取った。
「鉛でも入っているのか!? 着替えが入っているにしては、やたらと重くないか?」
 日暮は、ズシリと重いもなかのスポーツバッグに、さすがに仰天した。ここまで持ってくるのだって大変だったろうに。
「着替えは、あんまり入ってないですよ。半分くらい、おやつかな」
「お、おやつだぁ!?」
「生菓子は入ってませんけど、賞味期限が切れそうなものも入ってるから、食べちゃっていいですよ」
「そうなのか? じゃ、遠慮なく戴こう」
 ニコリと笑った日暮だったが、もなかがマジマジと自分の姿を見ているので、首を傾げた。
「どうした?」
「日暮のおじさんも、スーツ着るんだね」
「今日は政界の偉い人たちに会わなくちゃいけないんでな。着慣れないものを着ている」
「事件のこと?」
「まぁな。証人が大勢いるにしても、突拍子もない事件だったからな。大人の世界は、色々と面倒なんだよ」
「ふ〜ん。そっか」
 もなかは分かったような、分かっていないような、そんな曖昧な笑顔を見せた。
「全ての事件が解決したら、今度こそみんなでパーティーをやろう」
「十番会館でね」
「そう。十番会館でだ」
 ふたりは楽しそうに笑い合った。
「じゃあ、おじさん、またね!」
「ああ、またな」
 再会を約束して、もなかは駆け出していく。が、五メートルほど走ってからくるりとUターンしてきた。
「?」
 見送ろうとしていた日暮は、戻ってきたもなかを見て怪訝そうな顔をする。
「何だ? 忘れ物か?」
「うん」
 もなかは日暮の顔を見て肯く。
「お髭、ちゃんと剃ってから行くんだよ。お父さん」
「お? おお!」
 日暮は自分の顎を撫でながら、照れたように笑った。

 芝公園のベンチに腰掛け、操はぼんやりと東京タワーを見つめていた。
 衛と共に日本に戻ってきて、港区芝にある母方の叔母の家に住まうことになった操だったが、親戚とはいえ長年会っていなければ他人も同然だった。姉より先に結婚していた叔母は、操より一つ年上の息子がいた。同年代の異性と一つ屋根の下で共に生活を送るということは、操にとっては歓迎できる状況ではない。プライドが高い彼女だからこそ、余計にである。家にいても、いや、家にいるからこそ、気の休まる時間は一秒たりともなかった。
 結果的に、操は叔母一家との間に見えない壁を作ってしまっていた。だから、旅行に行くと叔母に告げた瞬間に見せた、彼女の不安そうな表情がなかなか脳裏から離れないでいた。叔母が何でそんな表情をしたのか、操には分からなかったのだ。
「……そんな顔をしていると、家出少女と間違われて補導されるぞ」
 その声に慌てて顔を上げると、ふたりのメイドを従えた無表情ななびきの顔があった。
「うるさいわね。余計なお世話よ」
 操はプイと顔を背ける。なびきが小さく微笑んだのが、その場の空気で分かった。
「……アンタはいいわよね。家族に愛されてて。外へ出るときも、お付きがいるし」
「ああ、こいつらか? 確かにあたし付きのメイドだけどね」
 なびきはふたりのメイドを見ると、可笑しそうに笑った。ふたりのメイドは前に進み出ると、
「よろしく。地球のプリンセス」
 柔らかな口調でそう言った。操は驚いて、ふたりのメイドの顔を交互に見た。ふたりとも同じ顔をしている。双子のようだ。
「ま、そういうことだ」
 なびきは全てを説明しなかった。しかし、「地球のプリンセス」と言われたことで、操にもこのふたりのメイドがただのメイドではないことは理解できた。
「お前の家の事情は知らないし、興味もない。ただ、辛気くさい顔はお前には似合わない」
「アンタ……」
「ブスがより一層ブスに見える」
「ぶ……。ブスですって!? ふざけないで! あたしのどこがブスだって言うのよ!!」
 気色ばんでベンチから立ち上がった操だったが、立ち上がった瞬間にその怒りはどこかへ消えてしまった。満足そうに、なびきが微笑んだからだ。

 うさぎと衛は、有栖川宮記念公園に来ていた。ここが、集合場所だったからだ。集合時間まではまだかなり時間があったが、他に行くところもないので早めに来てしまった。うさぎは、謙之と育子に「少し長い旅行に行ってくる」と告げた。ふたりは深く追求することなく、笑顔で家から送り出してくれた。
「みんな、楽しそうだね」
 元気に走り回っている子供たちを眺めながら、うさぎは微笑んだ。
「どうしてるかなぁ、ちびうさ」
 急にちびうさのことが懐かしくなった。なんだか、無性に会いたい。
「そう言えば、ここ半年ばかり来てないんじゃないのか?」
 衛も、最後にちびうさに会った日のことを思い返しているようだ。一時期頻繁に遊びに来ていたちびうさが、突然パッタリと来なくなった。
「三月に来たのが最後かなぁ。桜が咲く頃にまた来るって言ってたのになぁ……。もう夏だよね」
 うさぎか言うには、一緒に花見をする約束をしていたらしい。
「ね、まもちゃん!」
 何か閃いたらしいうさぎが、意味深げな笑みを浮かべてきた。衛にとっては、よからぬ事が起こる兆しの笑みだ。
「な、なんだ?」
 衛は怯んだ。
「キスしよ♪ そしたら、空からちびうさが振ってくるかもしれないし」
「どうしてそうなる……」
 昼日中、公衆の目がある中で、さすがにそれは照れる。「馬鹿を言ってんじゃない」と、衛はうさぎから距離を置いた。それほど残念そうではない、うさぎの「ケチ!」と言う声を背中に受けながら、衛は国立図書館の建屋を眺め見る。
 そっと寄り添うように、うさぎが横に並んできた。
「帰って来れるよね……?」
 うさぎのその言葉からは、不安や戸惑いが感じられた。
 うさぎは今まで、「負ける」と思って戦ってきたことは一度もない。常に、「勝つ」ことだけを思い描いて戦ってきた。どんなに苦しいときも、辛いときも、負けを意識したことは一度もなかった。しかし、今度の敵はスケールが違う。個として強い敵と戦うのならば、負けることは考えない。だが、今度の敵ネフィルム・エンパイアは「個」ではない。組織ではあったが、結果的に「個」の集団でしかなかったブラッディ・クルセイダースとも違う。一+一が二以上の力を発揮することは、自分たちが一番良く理解しているつもりだ。それが、自分たちの戦いだからだ。膨大な兵力を持つと言われているネフィルム・エンパイアと、少人数である自分たちはどう戦えばいいのか。そして、単なる一兵士でしかない敵と相対したときに、自分たちは迷うことなく戦うことができるのだろうか。上からの指示で、敵として認識させられた自分たちを排除するために現れる生身の兵士を相手に、自分たちは本当に戦うことができるのだろうか。いや、それ以前に、彼らと戦ってしまってもいいのだろうか。うさぎは、それが不安だった。
「お前がそんな弱気でどうする?」
 不意に投げ掛けられた言葉に振り向くと、なびきを筆頭に、共に戦う仲間たちがそこにいた。
 レイ、まこと、美奈子、ほたる、もなか、操、大道寺、美園、三条院、清宮。皆、信頼する仲間たちだ。
「あたしたちは、お前がいるから戦える。お前と共に過ごす未来を守るためだったら、あたしたちはどこまでも強くなれる」
「うん」
 うさぎは肯く。
「あたしもそうだよ。みんながいるから、あたしは戦える。みんながいるから、あたしはどこまででも強くなれる」
 信じ合える仲間がいるから強くなれる。それは、誰もが同じだった。
「集まるには、少し早いぞ?」
 衛は薄く笑いながら、集まっている皆に言った。集合時間までは、まだ二時間以上もある。それなのに、全員が集まってしまっている。
「他にすることもないからね」
 大道寺が戯けた。
「あたしは、タッくんとここでデート♪」
 そう言って腕に縋り付いてきた美奈子を、清宮は迷惑そうに見下ろしている。その横のレイは、とても不愉快そうにラブラブ状態の美奈子を見ていた。ちょっと見ない間でカレシをこさえてしまった美奈子に、どうやら腹を立てているらしい。うさぎはそのレイの様子が可笑しくて、クスクスと笑った。
 美園がするりと近寄ってきた。
「マスター」
 小声で衛に呼び掛ける。「美園」の状態ではあるが、雰囲気は既にゾイサイトに戻っている。美園をチラリと見やり、衛は肯いた。彼も既に気付いている。いや、衛だけではない。なびきと三条院も異変を察知した。清宮は左腕にまとわりついている美奈子の左肩に、そっと右手を添えた。何かを感じ取った美奈子の顔から、笑顔が消える。
 肌がピリピリするような、張り詰めた空気が流れた。
「……これはこれは、皆様お揃いで」
 ゆっくりと、だが確実に、その声の主ははうさぎたちに近付いてきた。
「美童……」
 なびきがうさぎを守るように、その男とうさぎの間に入ってきた。
「美童ですって?」
 レイが目を細めた。その名前に聞き覚えがあったからだ。
「娘が世話になったな、火野レイ君」
「何のつもりで今更父親を名乗るの!? 陽子さんはもういないわ!」
 レイは弾かれたように身じろぎをしてから、反発した。陽子はもうこの世界に存在していない。そればりではない。陽子の本当の父親は、この男ではないのだ。この男は、陽子をただ利用していたにすぎない。
 レイの勢いに気圧されることもなく、美童はさらりと答える。
「知っているよ。ヴァルカン様が目覚めたからね。あの娘の役目も終わったということだ」
「あなたは、全て知っていて……!?」
「もちろんだ。あの娘を選んだのも、女学院に入学させたのも、そして火川神社に放置したのも、全てわたしの計画だよ。セーラー戦士と関わらせることで、あの娘の覚醒を促すためのね」
「あたしたちを使用したのね」
「そう言うことになるな」
 美童は口元だけを歪めて笑いを作った。自分の計画が概ね成功したことに、満足しているような笑みだった。
「なびきさん。この人は……?」
 うさぎが恐る恐るといった風に、なびきの背中に問い掛けた。尋常ではない闘気を放っているのが、うさぎにも感じ取れる。
「用心しろ。敵だ」
 なびきは短く答えただけだった。詳しく説明している場合ではないのは分かる。しかし、うさぎとしてはこの男が「美童」という名であることと、レイとのやり取りが気になって仕方がない。消滅してしまった陽子が、自分たちの前に現れた時に名乗っていた名字が「美童」だったからだ。
「これだけの人数を相手に、おっさんひとりだけでやり合おうってのかい?」
 大道寺は早くも臨戦態勢だ。こちらは総勢十三人。それに場所柄この場で戦闘になれば、フォボスやディモスも駆け付けて来るだろう。
「大道寺の息子か……。貴様には先日のコーヒー代の貸しがあったな」
「細かいこと覚えてんだな」
「几帳面な性格なのでね」
 美童は今度は声を出して笑った。低音がよく響く笑い声だ。
「よく見たまえ。わたしはひとりではない」
「なに!?」
「囲まれてるよ。さっきからな」
 清宮は肩を窄(すぼ)めた。気付いていなかったのは、大道寺ひとりではなかったようだ。いや、むしろ気付いていた人数の方が少ない。美童の配下だろうか。ぐるりを取り囲まれている。
「この場で戦うのは、わたしの方は一向に構わないのだが、君たちが困るんじゃないのかね?」
 美童は言いながら、一方を顎で示した。そこに目を向けると、数人の子供が楽しそうに遊んでいる姿が目に映った。周囲を再確認すると、この子供たちの他にも何も知らない一般の人々の姿がチラホラと見える。美童の言うとおり、この場で戦うことは自分たちに取っては非常に不利だ。
「アンタも回りくどいことが好きなヤツだな」
 そう言って美童の背後に姿を見せたのは、身の丈二メートルはあろうかという大柄な体躯の青年だった。大股で歩み寄ってきて、美童と肩を並べうさぎたちを眺め回す。
「さっさと殺(や)っちまおうぜ」
「急(せ)くな、アキレウス」
 美童は不敵な笑みを浮かべつつ、アイネイアスの姿へと変貌する。呼応するかのように、アキレウスと呼ばれた大柄な体躯の青年の姿も変化する。筋肉が膨張し、体格が一回り大きくなったように感じられた。その姿は中世の剣闘士(グラディエーター)を連想させた。
「アンタの指示は受けない」
 アキレウスは解すように首を捻ると、右手に自分の体ほどの巨大な斧を出現させた。それを片手で軽々と振り回す。風が唸りを上げた。
「さぁ、始めようか」
 アキレウスは楽しそうに笑んだ。戦うことに喜びを感じている笑みだ。
「一戦交えないと駄目らしいね」
 まことが両手首を軽く解した。
「まこ。やつらの挑発に乗らないで」
 素早くレイが諫(いさ)めた。有栖川公園(ここ)で戦うわけにはいかないということを、まことは忘れてしまっている。しかし、それはこちら側の事情だ。既に戦闘意欲満々のアキレウスには関係ない。公園にいる一般人を気にする風もなかった。もとより気にする必要など、毛頭ないのだろう。美童は一般人警護のため、セーラー戦士たちが戦力を裂くであろう事をきちんと計算に入れている。戦力は五分五分。いや、この状況では、セーラー戦士たちの方が圧倒的に不利である。
「マズイな。敵は全て承知の上だ。この状況で戦うしかないな」
 三条院は覚悟を決めたようだ。
「あんなモン。まともに食らったらイチコロだぞ」
 清宮が注意を促す。あれ程の巨大な斧の一撃をまともに食らったら、即死は免れない。掠っただけでも致命傷に成り得る。
「俺たちで突破口を開く。お前たちはその隙にこの場から逃げろ。地場。頼む」
 傍らにいた美奈子を衛の方に押しやり、清宮は身構えた。その清宮の回りに、三条院、大道寺、美園の三人が集まってくる。その様子を見ていたアキレウスが、フンと小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「俺の目的はエンディミオンだ。雑魚に用はない」
「雑魚だとぉ!?」
「熱くなるな、清宮!」
 アキレウスの一言に激昂した清宮を、三条院が宥(なだ)めた。冷静さを失ってしまっては、相手の思う壺だ。
「僕たちを雑魚呼ばわりしたことを後悔させてあげるよ」
 熱くなっていたのは清宮ひとりではなかった。美園は既にゾイサイトの姿となり、シャイニングソードを手にしていた。
 辺りが濃厚な霧に覆われたのはその時だった。
 一面が真っ白となり、数センチ先も見ることが出来なくなっていた。
「なんだ、これは?」
 アキレウスが狼狽したような声を上げた。
「この霧は……?」
 真っ白い霧は、まるでうさぎたちを守るように広がっていく。
「みんな、こっちへ!」
 懐かしい声が、頭上から聞こえてきた。