戦士集結


 身も凍るような殺気だった気配だった。
 そこからは、激しい憎悪の念が感じ取れた。今まで感じたことのない、地の底から沸き上がってくるような凄まじい憎悪だった。
 それがセーラーアビスの“気”だということを、衛はまだ知らない。ただ、大司教ホーゼンとマザー・テレサとは接触したことがあるので、このふたりの放つ“気”ではないことは分かっていた。ふたりの“気”は、これほど醜悪ではなかった。
「何だ、この気配は………」
 とてもおぞましい気配だった。強力な「力」と言うより、ただただ不気味な「気」だった。
「あなたも感じているの?」
 顔面蒼白の忍が、ヨロヨロとおぼつかない足取りで歩み寄ってきた。かなり気分が悪そうに見えた。この毒々しい“気”の影響によるものだろう。これ程強烈な“気”ならば、完全に覚醒していない忍でも感じ取ることはできるはずだ。“気”にあてられたのかもしれない。
「とんでもないやつが、近くにいるらしい」
 衛は油断のない視線で、周囲を探る。目で見える範囲には、敵らしき姿は確認できない。
 彼らは未だに「封印の神殿」内部から、脱出できない状態だった。脱出したくても、どの方向に行けば外と通じているのか、全く分からなくなってしまっていたからだ。神殿の内部の通路は迷路のように入り組んでいるから、うっかりしていると同じところに戻ってきてしまう。それもそのはずである。ここにはセーラーヴァルカンを封印していた聖櫃(アーク)が安置されていた。「神殿」と名付けたのはブラッディ・クルセイダースであって、本来この建物が神殿であったと示す確たる証拠は何もないのだ。この建物が、聖櫃(アーク)を安置するためだけに建造されたものだとしたら、外部からの侵入に対して様々なトラップが仕掛けてあったとしても不思議ではないし、むしろそれが自然である。迷路のような通路は、そのトラップのひとつであろうと推測できる。幸い、命を脅かすようなトラップには遭遇していないが、それだとて「今のところ」遭遇していないだけなのかもしれないのだ。今後そういったトラップに遭遇しないという保証は、一切ない。
 だが、衛や忍は、そういった事情を一切知らなかった。ここにセーラーヴァルカンが封印されていたなど、衛も夢にも思わなかったことだろう。
「衛くん!」
 血相を変えてこちらに走ってくる謙之の姿が見えた。あんなにバタバタと足音を響かせていたら、敵に発見されてしまう危険性が高かったが、そんなことに気を回すことができないほど、謙之は慌てていた。
「外の様子を見たと言う集団と接触した!」
「なんですって!?」
 それには衛も忍も色めき立った。なるほど、謙之が慌てるわけである。
「今、飯塚さんが話を聞いている。どうやら敵さん、内部でゴタゴタが起こったらしい。シスターの抵抗が思ったよりも少ないのは、その影響があるらしい」
「内部紛争ですか………。これだけの組織だから、あり得ない話じゃないですね。しかし、何故このタイミングに………」
 あまりにもタイミングが良すぎると、衛は考えた。これではまるで、自分たちの暴動に合わせて内部紛争が表面化してきたみたいだ。それとも、この暴動事態が内部紛争の一端なのか。しかし何れにせよ、何者が先陣を切ったかなど今となっては調べる術はないし、分かったところで何かが変わるわけもない。
「とにかくこっちへ来てくれ。策を練ろう」
 謙之がそう言った直後、頭の上から声が降り注いできた。
『そこにいるのは、月の王国のプリンセスだな? お初にお目に掛かる。わらわの名はセーラーアビス』
 掠れたような、囁くような、ひどく耳障りな声だった。周囲に声の主の姿は見えない。不気味に声だけが響いてくる。
(今、月の王国のプリンセスと言った………。うさが近くに来ている!?)
 すぐ近くまで、うさぎたちが来ているのかもしれないと、衛は思った。声の主は、そのうさぎたちと対峙しているのだ。
「セーラー戦士が、助けに来てくれたのか!?」
 どうやら今の声は、謙之の耳にも届いていたようだ。ただ謙之の頭の中には、セーラー戦士=正義の戦士という図式があった。だから、セーラー戦士と聞くと、無条件で味方だと判断してしまう。しかし、衛は違う。
「いえ、これは敵の声だと思います」
 おぞましい“気”は頭上から感じている。恐らくこの声の主が、この“気”の持ち主であろう。
「あなたがそう言い切るだけの根拠が何なのか分からないけど、敵だという考えには同感ね。こんな醜悪な“気”を放つ相手を、味方だとは考えたくもない」
 忍は嫌悪感を(あら)わにしていた。胸が苦しいのか、右手で喉の下辺りを軽く押さえている。顔色も相変わらず真っ青だ。
「とにかく、早いところここから脱出した方がよさそうです」
 衛がそう言った時だった。
『始めよう、戦いの宴を! 魂よ集え! わらわの力となれぃ!!』
 先程と同じ声が、頭上から響いた。その瞬間、何か不可思議な力に包まれるような感覚が襲ってきた。
「させない!!」
 忍がいち早く、異常を感じ取った。両手をいっぱいに広げ、周囲に結界を張り巡らした。半径三メートルほどの結界だったが、そのお陰で衛も謙之も無事だった。咄嗟に忍は結界を張ったのだが、少しでもそのタイミングが遅れていたら、三人ともセーラーアビスの“弾”として、光の珠に封じ込められていたところだった。
「何だ!?」
「分からない! 咄嗟に体が動いて………」
 衛は何が起きようとしていたのかを問うたのだが、忍はその意味を取り違えた。自分が取った行動を、衛に説明していた。
「いや、そうじゃない………。今の感覚、どう思う? 何か嫌な予感がするのだが」
「分かんないよ。あたしにはもう、何が何だか………」
 忍は混乱し始めていた。
「何がどうしたって言うんだ!? 忍くん、この光は………?」
 謙之は自分たちを守護するように包んでいる光の結界を、忍が放っているらしいことに驚いていた。だが忍には、謙之に納得してもらえるように説明できるだけの余裕は、今はなかった。
「俺は、こんなところにいる場合じゃないのかもしれない………。忍、ここを頼む。状況を探ってくる」
「ひとりでかい?」
「俺ひとりの方が、動きやすい」
 衛はフッと笑ってみせた。忍は先程、衛がタキシード仮面として戦った様子を見ている。納得したように、小さく肯いた。
「だけど、今あたしの結界の外に出るのは危険じゃないか? 意識して張った結界じゃないから、自慢できるもんじゃないけど、この中にいれば安全だと思う」
「大丈夫だ。このくらいの芸当は、俺にもできる。それに、いつまでも張っていられるわけじゃない。どうにかして、ここから脱出する方法を考えなければならない」
 タキシード仮面として行動を起こす時だと、衛は判断した。うさぎたちが近くに来ているのならば、合流して敵を殲滅する。無事に全員を脱出させるには、その方法が最善の策だと考えた。
「待つんだ、衛くん!」
 それには謙之が慌てた。無理もない。謙之は衛に「特別な力」があると思っていないからだ。
「ご心配には及びません。月野さんはここを動かないでください。彼女が守ってくれるでしょう」
「しかし………」
「俺は死にません。大丈夫です」
 衛はそう言って、結界の外に飛び出していった。
「月の王国のプリンセス………」
 忍は呟く。先程のセーラーアビスと名乗った者が、口にしていた言葉だ。
「月の王国………」
 そんな名称をどこかで聞いたことがあるような気がした。走り去っていく衛の背中。自分を置き去りにして、ひとりで遠くへ行ってしまうその背中を、忍はどこかで見たことがあるような気がしてならなかった。

 衛は謙之が走ってきた方向に向かって、通路を走る。飯塚たちの姿がどこにも見えない。先程の光の影響によるものかもしれないと感じながらも、彼らがどうなったのか、想像することができない。
「いったい、何が起こったんだ………。さっきの光は何なんだ?」
 一瞬にして、共に脱出を試みていた仲間たちの姿が消えてしまった。合流をしたという集団も、どこにも見当たらない。
 何かが起こったことは、間違いない。
 衛はタキシード仮面の姿に変身をする。人目を(はばか)る必要はもうない。
「タキシード・ラ・スモーキング・ボンバー!」
 手近な壁を粉砕した。敵に発見されてももう構わないと思った。確実に外に出る方法は、真っ直ぐに壁を破壊しながら進むことだ。三つ目の壁を破壊したが、敵が現れる気配は感じなかった。これだけ派手に動いて敵が迎撃に現れないということは、敵も消えてしまったということなのかもしれない。
 五つ目の壁を破壊すると、ようやく太陽の光を確認することが出来た。タキシード仮面は、油断なく外へと飛び出す。
「うさたちはどこだ!?」
 まずは味方の姿を捜した。しかし、見える範囲には味方の姿はない。敵も襲ってくる気配はない。
「!?」
 強烈な気配を感じ、上空を見上げた。神殿の真上の空間に、マントを羽織った女性らしき姿が確認できた。セーラーアビスだ。タキシード仮面は直感した。
 強烈な気配を感じ、タキシード仮面が上空を見上げ、セーラーアビスの姿を確認した時が、正に「魂の悲鳴砲(ソウル・シュリーク・カノン)」をセーラームーンたちに向かって放った瞬間だった。
「何をしたんだ!?」
 空間が揺らめいたような気がしただけで、具体的に何が起こったのか感じ取れなかった。しかし、何か異様な“気”を感じた。自分の位置からでは、セーラーアビスが何をしたのか分からないだけで、明らかに何かに向かって攻撃をしたのだと感じた。セーラーアビスにとって敵ということは、即ち自分にとっては味方という可能性が高い。
「うさたちは向こうか!」
 タキシード仮面は腰を落とし、地面に右手の掌を付けた。タキシード仮面はそうすることになって、大地の波動を感じ取り、広範囲の情報を「感じる」ことができた。取り敢えず、今はそれ程広い範囲の情報は必要ない。セーラーアビスが攻撃をしたらしいポイントに、何があるのか確認できればいい。
「うさ!」
 仲間たちを感じた。タキシード仮面の脳裏に、感じ取った波動が映像として投射される。セーラームーンとセーラーサン、ヴィーナス、マーズ、ジュピター、カロン、ギャラクシア、ジェダイト、そしてクンツァイト。あとのふたりの騎士風の男たちが誰なのか分からないが、どうやら味方であるらしい。全員苦しんでいた。先程の攻撃によるダメージだと感じた。この様子だと、次の攻撃に耐えられそうにない。タキシード仮面は、セーラーアビスに顔を向けた。幸い、自分に気付いている様子はない。杖のようなものを振るっている。
「攻撃をする!?」
 脳裏に煌めきが走り、タキシード仮面にそう判断させる。攻撃をさせるわけにはいかない。
 タキシード仮面はセーラーアビスに向かって、スモーキング・ボンバーを放とうとする。が、寸でのところで思い留まった。セーラーアビスの周囲に漂う光の珠が、視界に飛び込んで来たからだ。その数は、数百はあるだろうか。タキシード仮面は目を凝らす。
「何だと!?」
 その正体が何であるのか、すぐに分かった。光の珠の中に、人が生きたまま封じ込められている。その珠のひとつに、飯塚の姿を発見した。他にも見覚えのある人々の姿を確認した。神殿中の人々の姿が消えていたのは、このためだったのだ。あの光によって、全員が珠の中に封じ込められてしまったようだ。
 タキシード仮面が躊躇している間に、セーラーアビスが攻撃を放っていた。誰に対して攻撃を加えたのかは明白である。彼女たちは、今、ろくに動けないはずだ。
「タキシード・ラ・スモーキング・ボンバー!!」
 今度は迷うことなく、無数の光の矢に向かってスモーキング・ボンバーを放った。同時に身を躍らせる。
「しっかりしろ! うさ!! しっかりしろ! みんな!!」
 仲間たちの姿が見えた瞬間に、タキシード仮面はそう叫んでいた。

「まーくん!?」
 タキシード仮面の波動をいち早く察知したのは、アースだった。アースは正確に、タキシード仮面がいる方向に顔を向けていた。もちろん、ここから姿が見えるはずはない。でも、この方向にいると、本能がそう知らせている。
「こっちの方向に、まーくんがいるわ!」
 アースは断言する。間違いない。確信していた。
「ああ、俺も感じた」
「うん、僕もね」
 ネフライトとゾイサイトは肯き合った。特にゾイサイトの表情は明るい。
「あの方向………。とても恐ろしい、邪悪な気を感じるわ」
 アースが顔を向けている方向を同じように見て、サターンは言った。表情が硬い。サターンはこの位置から、セーラーアビスの“気”を感じ取っているのだ。
「まーくんのところに行かなくちゃ!」
 アースは気が気ではない。
「マスターが動いたのなら、我々はマスターの元へゆかねばな」
「うん。あそこにはとんでもない敵がいるみたいだ。マスターはそいつと戦っている。僕たちが行かなくちゃ」
「あたしも行くからね! 誰が何と言おうと行くからね!」
 気色ばんでそう言ってから、アースはサターンの顔を見た。サターンは肯く。
「ここは大丈夫。あたしひとりで守るわ」
「本当ならあたしを守るために付いて来なきゃいけないところだけど、特別に許すわ。あんたはここに残って、ここの人たちを守りなさい」
「ご指示に従います。地球のプリンセス」
「何で笑ってるのよぉ!」
 言葉尻が笑いに震えていたので、アースが口を尖らせて不満げな顔をした。もう一度顔を見合わせて、ふたりは肯き合った。
「がんばってね、アース(みさお)
「うん、任せて! まーくんのハートをがっちりキャッチしてくるわ!!」
 違うと思う………。
 そう三人は思ったが、反論が恐ろしかったので、口には出せなかった。

 セーラーアビスはその男を、忌々しそうに見下ろす。
 漆黒のタキシードを上品に着こなし、漆黒のマントを(ひるがえ)して、その男はセーラー戦士たちの前方に颯爽と現れた。鋭い眼光で、自分のことを睨め付けている。
魂の悲鳴砲(ソウル・シュリーク・カノン)」を放つには、まだパワーが不足している。もう少し、パワーの充填が必要だった。
『少し遠いな、プリンセス。遠慮するでない。もう少し、わらわの近くに来てたもれ』
 セーラーアビスは左手を前方に突き出すと、艶めかしい手付きで手招いてみせた。その瞬間、セーラームーンたちは空間を飛び越え、セーラーアビスの五百メートル程前方まで引き寄せられてしまう。
タキシード仮面(まもちゃん)!」
「マスター………!」
 セーラームーンとクンツァイトが、苦しげな表情を自分に向けてきた。
(さっきの攻撃の影響なのか!?)
 タキシード仮面は、肩越しに仲間たちの状態を確認する。全員が思うように体を動かせない状態らしい。顔を正面のセーラーアビスに戻した。
「お前がセーラーアビスか!?」
 タキシード仮面が問う。セーラーアビスの注意を自分に引き付けるためだ。セーラームーンたちは何らかの要因によって、動けない状態らしい。回復するまで、時間を稼がなくてはならない。
『いかにも、わらわがセーラーアビスじゃ。わらわの邪魔をする者が、また増えたか………』
 セーラーアビスは口元を歪める。目は血走っているが、笑っているようにも感じられた。
『そなたひとりで、この者たち全員を守りきることができるかのう?』
 セーラーアビスは楽しげに笑むと、再びデット・アイ・アローを放った。
 今度のデッド・アイ・アローは、広範囲に渡って放たれていた。攻撃範囲を広げれば、それだけ命中する確率が増える。セーラーアビスはそれを計算して、攻撃を行っていた。
「ちっ!」
 タキシード仮面は舌を鳴らした。セーラームーンたちの前方に陣取ったのは失敗だった。
 スモーキング・ボンバーを横に薙ぐように放つことは簡単だが、このまま放てばデッド・アイ・アローばかりではなく、光の珠をも攻撃してしまうことになる。
 悠長に考えている時間はなかった。セーラーアビスの放ったデッド・アイ・アローは、間近まで迫ってきている。
「タキシード・ラ・リドー」
 タキシード仮面は、前方に防御のための光のカーテンを出現させた。光り輝く美しいカーテンは、セーラーアビスの放ったデッド・アイ・アローが突き刺さると、光の粒子に変えて吸収する。
『そうでなくては、面白くないな』
 自分の攻撃が完全に防がれたのにも拘わらず、セーラーアビスは嬉しそうに表情を緩めた。そのセーラーアビスに呼応するかのように、「脳髄の杖」が踊るように揺れた。まるでそれは、人が肩を揺すって笑っているような印象を受けた。
「いつまでも防げるもんじゃない! どうにか動けないのか!?」
 タキシード仮面は、自分の肩越しに仲間たちを叱咤する。光のカーテンは一瞬しか発生させることができない。次の攻撃を受けた時は、もう一度発生させなければならないのだ。パワーは無限ではない。そう何度も放つことはできない。自分が防いでいる間に、どうにか回復してもらわなければ、何れ全滅してしまう。
セーラームーン(うさ)! みんなを回復できないのか!?」
「ゴメン、タキシード仮面(まもちゃん)。駄目なの! 銀水晶も発動しないの!」
「くっ!」
 悔しげなセーラームーンの声を肩越しに聞き、タキシード仮面は歯噛みした。自分ひとりで、どこまでこの人数を守りきることができるのか。
「くっそぉ! マスターの目の前で………!!」
「いつまでもこんな醜態をさらしていられるかぁ!!」
 ジェダイトとクンツァイトのふたりが、自分たちの心に巣くった「恐怖」という名の悪魔を振り払うべく、自らを鼓舞するように天に向かって叫んだ。その時―――。
「アース・キュア・エッセンス!!」
 頭上から淡い光が降り注いできた。その光を浴びると、つい今し方まで心を支配していた「恐怖」が、嘘のように薄れていく。
 ネフライト、ゾイサイト、そしてアースが、タキシード仮面の背後に揃って着地した。
『カトンボが、また増えたか………』
 セーラーアビスは、忌々しそうにアースたちに目を向けた。自分がセーラームーたちに与えた「恐怖」と言う名の枷を、この者たちは取り払ってしまった。
『ならば、二度と消えぬ「恐怖」を与えてやる』
 セーラーアビスの双眸が、怪しい輝きを放った。

「あたしが回復してあげたんだから、思いっきし感謝しなさいよ!」
 小憎らしい笑みを、アースは振り向いて仲間のたちに送った。
「大一番で全員集合ってところだね」
 ゾイサイトは言った。プリンス・エンディミオンの四人の親衛隊が、ついにこの土壇場で全員が集結したことになる。
「む!?」
「え? なに!?」
 タキシード仮面とアースの体が光に包まれる。四人の親衛隊の体にも、力が(みなぎ)ってきた。
「アースのコスチュームが………」
 その変化にセーラーサンがいち早く気が付いた。肩のパットがクリアーに変化し、腰のリボンも透明感のある長いリボンに変化する。スーパー戦士のコスチュームだ。
タキシード仮面(まもちゃん)!」
 変化はタキシード仮面にも訪れていた。漆黒のマントが渋みのある黄金のマントに変化し、タキシードには煌びやかな金の刺繍のラインが入る。
「パワーアップした!?」
 タキシード仮面は、自分の体に起こった異変に驚いていた。ゴールデン・クリスタルが、胸の内で熱く輝いているのを感じた。
「来た来た来たぁ! なんだかよく分からないけど、とっても強くなったような気がするわ!」
 アースは体全体で、派手にガッツポーズを取っている。
「こいつは何だ!?」
 ネフライトは背後のジェダイトとクンツァイトに問う。すぐさまジェダイトが答えてきた。
「奈落から甦った大魔導士だとさ。ブラッディ・クルセイダースでもない。セーラーヴァルカンでもない。こいつが俺たちの敵だ」
「無闇に攻撃をするな。やつの周りをよく見てみろ」
 クンツァイトは注意を促すように言った。合流してきた三人は、言われた通りにセーラーアビスの周囲を探る。
「光の珠か………。何!? 人が入っているだと!?」
「そう言うことだ、ネフライト。間違っても攻撃するなよ」
「了解、した」
 ネフライトは呻くしかない。一気に反撃に移れるかと思ったが、そう簡単にはいかないことに、苛立ちさえ感じていた。だが、
「ビビってんじゃない!!」
 ギャラクシアが怒鳴った。
「怖がってちゃ何もできない! チームワークで攻めれば、どうにか道は開けるはずだ。それがお前たちの真骨頂のはずだろ? 行くぞ! やつが例の技を放つ前に、決着を付けるんだ!!」
 ギャラクシアが拳を握り締めると、全員が大きく肯いた。
『忌々しい月の王国の者どもめ! わらわの魔力は無限。わらわの力の前に恐怖するがいい!!』
 セーラーアビスは左腕を振り上げた。光の珠が集まってくる。パワーが回復したのだ。
「いけない! またあの技を!!」
 セーラーアビスのその動作が何を意味しているのか、セーラームーンにも分かった。どんな技か分かっているから、今度は避けることは可能だ。全員が技の直撃を食らうことはないかもしれない。しかし、あの技を放たせることはことは即ち、何の罪もない人の命がひとつ消滅するということを意味する。
「アビス!」
 カロンが怒りを(あら)わにして、上空のセーラーアビスを見上げた。
「今度はひとつじゃないぞ! やつめ、複数を同時に握り潰すつもりだ!」
 ギャラクシアの言う通りだった。天に向かって突き上げられたセーラーアビスの左手に、複数の光の珠が流れ寄ってくる。
「五つか!」
 左手に集まった光の珠の数を、ジュピターが数えた。
「違うわ!! あれを見て!」
 マーズが指し示したのは、突き出されたセーラーアビスの左腕のやや上方だった。そこに何があるのかを発見し、その場にいた全員が息を飲んだ。
 それは「手」だった。
 巨大な「手」が、宙に(うごめ)いていた。
 左手だった。見えているのは、手首から先。青白い不気味な肌に、毒々しい赤く長い爪を持っていた。セーラーアビスはその「手」に向かって、光の珠を集めていたのだ。あまりにも巨大であったがために、そこに「手」があることに気が付かなかったのだ。
 セーラーアビスは、次の一撃で決着を付ける気でいるらしい。
「あれだけの数を一度に握り潰されたら………」
 ヴィーナスはわななく口で言葉を発した。ひとりの「悲鳴」で、あれだけのダメージを受けたのだ。何百という人々の死への恐怖の「悲鳴」を一度に浴びたら、どうなるのか想像もできない。
「もうやだ! やめてよ!! 何でそんなに平気で人を殺せるの!? その人たちが、あなたに何をしたって言うのよ!?」
 セーラーサンが上空のセーラーアビスに向かって、涙ながらに訴えた。
「なら、撃たせなきゃいい! あの手を直接ぶっ叩く!!」
 ジュピターが猛然と突進した。その右の拳には、ありったけのパワーを集中させている。ジュピターも一撃で勝負を付ける気なのだ。
『甘いわ!!』
 迫ってくるジュピターを見ても、セーラーアビスは動じなかった。首を僅かに捻ると、長い髪が唸りを上げてジュピターに襲い掛かった。
 ジュピターは構わず突っ込んだ。自分に襲い掛かってきたセーラーアビスの髪は、四人の親衛隊が抑えてくれた。それぞれ専用の剣を手にし、襲い来る大蛇のような髪を次々と切断していく。
「俺たちが援護する! 構わずゆけ!!」
 クンツァイトがジュピターの背中に向かって怒鳴った。
『しゃらくさい!』
「脳髄の杖」が、正面からジュピターに向かって振り下ろされる。勢いのあるジュピターは避けられない。だが不意に、体が上へと持ち上げられた。ヴィーナスがラブ・ミー・チェーンで、ジュピターの体を引き上げたのだ。
 ふたりは「手」の前方で、一瞬停止した。セーラーアビスがふたりを見上げ、ニタリと笑った。
『戦士たちの悲鳴は、どれ程のパワーがあるのかのぅ………』
「なんだと!?」
「しまった! 近づきすぎた!?」
 ふたりが異常に気が付いた時は、既に手遅れだった。光に体を包まれる。
「マズイ! 全員、離脱だ!!」
 ジュピターとヴィーナスが、光の珠に捉えられた様を、クンツァイトは目の当たりにしていた。救出したいのは山々だったが、クンツァイトは仲間の安全の方を優先した。しかし、回避するにはセーラーアビスに接近しすぎていた。
「迂闊だった!」
「くそぉ!」
「マスター!!」
 ネフライトも、ジェダイトも、ゾイサイトも、それを回避することはできなかった。四人とも、光の珠の中に封じ込められてしまう。
『あははははは………!!』
 セーラーアビスの勝ち誇ったような嘲笑が、空間を震動させた。
『さぁ! 死への恐怖を募らせるがいい!!』
 セーラーアビスは口をパカリと開けた。口の中の目が、ギョロリと動く。
 巨大な「手」の中に、全ての光の珠が集まる。ジュピターやヴィーナス。四人の親衛隊が封じられた珠が、そこに加わる。
「どうすればいいの………」
 有効な手立てが思い付かず、マーズは頭を左右に振る。セーラーアビスは、いつでも自分たちを光の珠の中に封じ込めることができたのだ。封じ込めさえすれば、簡単に握り潰すことができる。それを敢えて行わないのは、そうしてしまうと「つまらない」からなのだろう。それでは、「復讐」にならないからなのだろう。
「俺たちは、勝てないのか………」
 ジェラールは絶望し、その場にガックリと膝を付いた。
「やむを得ん。攻撃する!」
 ギャラクシアは真っ直ぐにセーラームーンの顔を見据えた。このままでは自分たちは全滅してしまう。勝つためにはセーラーアビスを攻撃しなければならない。
「でも、みんなが!」
 すぐに答えてきたのはセーラーサンだった。セーラームーンはセーラーアビスに視線を向けると、唇を噛み締めて無言で見据えた。迷っているのだ。どうすべきかを。
(何か手はないのか………)
 タキシード仮面は考える。有効な手立てが何かあるはずだ。だから必死に考えた。
「わたしにお任せを!!」
 声が聞こえた。同時に、何か巨大な影が頭上を覆った。
 セーラーノアだった。ノアの「方舟」が猛スピードで突っ込んできたのだ。
 ノアの「方舟」は光の珠を一瞬で全て船内に取り込み、そのまま急加速で離脱していく。
『な、何だと!?』
 驚いたのはセーラーアビスだ。一箇所に集めた「弾」が、一瞬で根刮(ねこそ)ぎ奪われてしまったからだ。
 実のところ、セーラーノアはこのタイミングをずっと待っていたのだ。戦士たちを助けに行くことだけなら、いつでもできた。しかし、戦士たちを助けたとしても、状況は好転しない。セーラーアビスによって、光の珠に封じられてしまった人々を全員助け出さなければ、セーラーアビスとまともに戦うことすらできないからだ。ただ、広範囲に散らばって浮遊する光の珠を、一瞬で船内に収容することは困難だった。だからセーラーノアは、セーラーアビスが戦士たちにトドメを刺そうと「珠」を一箇所に集めるその時を、ずっと待っていたのだ。一種の賭けだったが、その賭けは見事に成功した。
 全く予想していなかった事態に、今までどのような事態にも動揺しなかったセーラーアビスが、今、明らかに動揺をしていた。
 憎き月の者たちを殲滅するために集めた「弾」を、一瞬にして全て失ってしまったからだ。しかも奪った相手―――セーラーノアは、既にこの空域から離脱してしまっている。一瞬の出来事だったので、その魔力を持ってしても、防ぐことも奪い返すことも、そして離脱していくノアの「方舟」を追跡することもできなかった。
『おのれ………』
 地の底から響いてくるような、不気味な呻きだった。目はあらぬ方向に向けられ、体は怒りで小刻みに震える。傍らの「脳髄の杖」からは、怪しげなオーラが立ち上っている。
『わらわを完全に怒らせたな………!』
 魂の雄叫びのような響きが、空間を揺るがした。セーラーアビスの背後に、暗黒の空間が広がる。円状の空間は、徐々にその大きさを増してゆく。暗黒の力がそこから吹き出し、セーラーアビスの体を包んだ。
『おぉぉぉぉぉ………!!』
 セーラーアビスは天に向かって、獣のように咆吼する。
「やつのパワーが、どんどん上がっている!」
 ギャラクシアが息を飲んだ。かつての自分が取り込まれたカオスを、遥かに凌駕する強大なパワーだった。
「なんて、邪悪な………」
 マーズは口の端を振るわせていた。
 セーラーノアによって救出されたヴィーナスやジュピター、四人の親衛隊の面々は、まだ戻ってこない。瞬時に戻ってこれる距離にいないのか、それとも光の珠から抜け出せないでいるのか、その理由は分からない。あるいはセーラーアビスを倒さない限り、光の珠に封じられた人々を助ける術はないのかもしれない。
『はぁ………っ!!』
 セーラーアビスが左手を振るった。ドーンという衝撃が、時空を揺さぶった。
『白き月の者どもよ! その命、わらわが根刮(ねこそ)ぎ喰ろうてくれる!! 覚悟せい!!』
セーラームーン(おねぇ)! 口がっ!!」
 今度は「口」だった。いつの間にか、巨大な「口」が自分たちを捉えていた。足下には「舌」が、頭上には「歯」が見える。既に「口」の中に捉えられていたのだ。セーラーアビスの背後に空いている暗黒の空間は、「喉」なのだと分かった。人でいう口蓋垂(こうがいすい)の部分に、セーラーアビスはいた。
「こんなバケモン、初めてみたよ」
 半ば呆れたようにギャラクシアは言った。最強を自負する自分が手も足も出ないのだ。呆れるしかない。
「これが、あんたを襲った相手なのかい? セーラーカロン………」
 カロン―――夏恋は呆然としていた。こんなにも強力な相手に、たったひとりのセーラーカロンが敵わなかったのも肯ける。
 暗黒の空間に向かって、セーラームーンたちは徐々に吸い込まれる。
『最早お前たちは、わらわの結界の中にいる。外から、助けに入っては来れぬぞ!』
「セーラー戦士を見くびらないで!!」
 凛とした声が響いた。
不動城壁(サイレンス・ウォール)!!」
「なにぃ!?」
 戦士たちにはまだ「駒」が残されていたのだ。この“ラピュタ”においてただひとり、合流をしていなかったサターンが、絶体絶命のこの場面で合流を果たした。サイレンス・グレイブを「舌」に突き刺し、絶対防御のシールドをフルパワーで張る。
サターン(ほたるちゃん)!?」
「セーラーノアが、十番病院の人たちを船内に移動させたのです。お陰で、あたしが動けるようになりました。間に合ってよかったです」
 サターンはにっこりと笑った。
「だが、どうする? このままじゃどっちにしろ、防戦一方だぞ」
 乾いた唇を舐めてから、ジェラールは言った。現在は、サターンの力によって防いでいるだけにすぎない。一時の窮地は脱したが、事態が好転したわけではない。
『結界を張ったとて、同じことよ! 結界ごと飲み込んでくれるわ!!』
 セーラーアビスはそのサターンの不動城壁(サイレンス・ウォール)ごと、セーラームーンたちを飲み込もうとパワーを更に高めた。
「くっ!」
 それに呼応して、サターンもパワーを高めた。
『アビスのパワーの源を断たねばなりません』
 カロンの口から声が漏れた。夏恋の声ではない、彼女の内に宿っているセーラーカロンの声だ。
『アビスは奈落からパワーを吸い上げています。この世界でアビスを倒すには、まず奈落とアビスを切り離さなくてはなりません』
「理屈では分かる。だが、どうやればいい?」
 タキシード仮面が尋ねた。
『「魂の門」を閉じる必要があります。開け放たれた門から、アビスはパワーを吸い上げています。わたしが閉じますから、その隙に………。アビスの力を抑えられるのは、一瞬しかないでしょう。アビスはその魔力で、強制的に魂の門を開けています。ですから、わたしが全パワーでそれを抑えます』
「このパワーをキミがひとりで抑えると言うのか!? 無茶だ」
「無茶は分かってるよ。だけど、やるしかないんだろ? セーラーカロン」
 今度は夏恋の声だった。夏恋はセーラーカロンの考えを理解した。この状況を打開できるのが自分たち(・・・・)しかいないのなら、やるしかないのだ。
「でも、カロン(かれんさん)。そんなことをしたら、体に負担が………」
 セーラームーンは、夏恋の身を案じた。夏恋のお腹の中には、兵藤との子供がいるのだ。極限のパワーの放出は、体に負担が掛からないわけはない。
「大丈夫だよ。あたしとあいつの子だ。そんなにヤワじゃない」
 カロンは口の端だけを緩めた。彼女としても不安なのだ。だが、この仕事ができるのは、セーラーカロンの力を受け継いだ自分以外誰にもできない。
「悪いけど、誰も連れて行くことはできないよ。来てもらっても意味がない」
 何か言いたそうに目を向けてきたマーズに、カロンは言った。気持ちはありがたいが、一緒に来てもらっても本当に何も意味をなさない。それよりも自分が「魂の門」を閉じた一瞬の間に、残っている全員の力を集結してセーラーアビスを倒してもらう必要があった。そのためには、できるだけ多くの人数を、この場に残しておく必要がある。
カロン(かれんさん)………」
「そんな顔をしないでよ、セーラームーン(うさぎ)。別に帰ってこないわけじゃないんだからさ」
 カロンは不安そうな表情をしているセーラームーンに、柔らかく微笑みかけた。
(あいつ)が守ってくれるさ。あたしを置いて、勝手に先に逝っちまったんだ。そのくらいの役には立ってもらわないとね」
 カロンはウインクをすると、仲間たちの顔をゆっくりと見回した。共に戦ってきた仲間たちの顔がそこにあった。不治の病に冒され、絶望の淵で自らの命を絶った自分が、セーラーカロンと融合することで得た新たな仲間たちの姿だ。元々無くしていた命である。もう一度、今度は仲間たちのために賭けてみるのも悪くはない。夏恋の覚悟は、揺るぎないものだった。
カロン(かれんさん)。お腹、触らせてもらってもいいですか?」
 何を思ったのか、突然セーラーサンは言った。
「何言ってんのあんた!? こんな時に、バッカじゃないの!?」
 アースが思い切り馬鹿にしたような口調で言ってきたのだが、セーラーサンは気にしなかった。セーラーサンはもう一度、
「触ってもいいですか?」
 とカロンに尋ねた。カロンもさすがに驚いたようだったが、
「ああ、いいよ」
 笑顔で肯いた。
 セーラーサンは歩み寄ると、カロンのお腹にそっと右手を添えた。
「あたしが力を貸してあげる。だから、お母さんを守ってね」
 セーラーサンは、そうカロンのお腹の子に語りかけた。セーラーサンの掌から、暖かな光がお腹の子に送られたように見えた。
「ありがとう。百人力だ」
 カロンは本当に嬉しそうに笑った。
「じゃあ、行ってくる。こっちを頼んだよ」
 カロンはそう言うと、「魂の門」に向かって旅立って行った。
 セーラーサンはカロンを見送ると、仲間たちの方に顔を向けた。
「大丈夫。あたしたちは勝ちます。“彼女”がそう言ってましたから!」
 セーラーサンは少しはにかみながら、力強くそう言った。




うんちく(・_・)b
口蓋垂………いわゆる、「のどちんこ」のことです。